運動モルフォロギーとはなにか? 考え方とその方法についてその①

運動モルフォルギーの基本的な考え方を金子明友、高橋義人、三木成夫の著作をとおして追求または追思考していきたいと思うこのことがスポーツ運動学だけでなく、医学や哲学の分野にまでひろがっていくことを筆者は密かに願っている。
金子明友はクルト・マイネルの著書Bwegungslehreを20年の歳月をかけて翻訳した。そこにはゲーテの形態学(モルフォルギー)の概念が随所にちりばめられてはいるが東ドイツからの出版の問題もあり思想統制がなされ隔靴掻痒の思いで書いたことは想像に難くない。ここでは鍵概念のモルフォロギー的考察法についての概略を示すことにより以下の高橋義人のゲーテ研究、三木成夫の形態学研究の概略を述べていこうと思う。尚、引用文献箇所が長くなってしまった理由は筆者の勉強不足によるものなので好意的にうけとめてもらえると幸いである。

運動モルフォルギーは運動を研究していくに際して、まず取りかからなければならない第一の段階である。モルフォルギーの対象は現実に与えられたスポーツの運動の現象であり、それを客観化するのは映画によって可能になっている。この考察法は“現象科学的”考察法とも名づけられるであろうが、運動モルフォルギーという名称は何が問題になるかをより明確に表わすので、好んでこの名称をとりあげるものである。そこでは、われわれの感覚器、とくに直接に目に訴えられる運動形態の把握と記述が前景に立てられる。したがって、運動モルフォルギーは身体構造のモルフォルギーではなくて、身体運動のモルフォロギーであり、機能モルフォロギーなのである。映画は厳密に観察したり、止めて観察したり、反復してなんども見ることができるし、また構成成分に分けたり計測したり、比較考察したりすることをも可能にする。モルフォロギー的運動分析はつかのまの印象分析のなかに隠されている事実や徴表や関係を確認さしてくれる。映画はまた、個々の運動習熟が形成されていく発達位相を比較考察したり、運動系に関する発生についての発達段階を確認することができる。モルフォルギーはスポーツ運動が漸次に発生したり、形成化されていくのを追求することによってそれは―ヘルスト・ヘッケルによる概念構成を利用すれば―形態発生、すなわち運動形態の発達と形成の理論へと発達するのである。モルフォルギーは比較と抽象化によって一定の徴表と固有性を浮き彫りにし、運動類縁性をとらえ、モルフォルギーとしての事実資料の範囲において、最後には一般化というものを可能にする所関連と諸関係を把握するものである。
 したがって、モルフォルギー的研究法はスポーツ運動学の最初の拠点として不可欠なのである。それはスポーツ運動を解剖学的・生理学的・心理学的あるいは物理学的・力学的立場から分析的に考察していくに先立って、スポーツ運動を現実に行われているままでとらえようとするものである。一般に、これらの個別科学はスポーツ運動というものをある全体現象として、また環界に対する高次の行動形式の特別な質を示すような、分割できない運動系の行為としてとらえていこうとするものなのではないのである。
これに対して、モルフォロギー的考察法でとらえられようとするのは、たとえば、空時・力動構造、運動の流動、運動の弾性など、一般に分析器が避けてしまう運動の徴表や固有性である。また、運動モルフォルギーは解剖学・生理学的、物理学・力学的な運動の前提や条件のなかからは、さしあたって何ひとつ取り入れないけれども、心理学的考察法はモルフォロギー的考察法ときわめて密接な結びつきをもっている。
 走ることや器械運動の技をしっかりと観察し、分析していく場合に、モルフォロギーの学者はまずもって、たとえば空時的な展開形式、運動の大きさ、運動のスピード、運動の目標志向性など、可視的な、知覚できる量的・質的な諸徴表をその前景に立てる。モルフォロギー的考察法は、スポーツ運動を目から通して外から知覚していくだけではなく、体験し、“中から”知覚することによって大きく補充され、拡大される。これによって、われわれはきわめてあいまいな感じの属性や全体性という属性を確認しようとしているのではない。全体性心理学はそれらの助けを借りて、運動体験から発して“運動ゲシュタルト”の属性を規定しようとしたのであった。われわれはむしろ、しばしば見過ごされてきた運動覚的運動分析器によって、自分の運動を知覚しようとしているのである。その分析器はしばしばきわめて正確な信頼できる感覚や知覚を得させ、視覚を大いに補ってくれるのである。この重要な事実は研究方法のところで詳しく取り扱われるので、ここではそのことに一言触れるだけにしておく。
 モルフォルギーとして確認されたすべての事実は、明確な、実証できる経験的現実に基づいているので、モルフォルギーは同時に可視的運動形態の成立に関与している諸要因を指摘することになる。つまりモルフォルギーは発見的性格を帯びるのである。すなわち運動の機能モルフォルギーは運動形態の発生と発達の基礎に横たわる客観的諸要因や諸法則を追求していくことによってさらに充実されなければならない。諸形態や形態発達の知識はそれを規定している要因、原因や条件の認識へとさらに高められなければならない。これによって初めてスポーツ指導者は、その生徒の運動発達をこれらの知識と認識に基づいて、計画的に、意図的に、効果的に促進し、改善することが可能になる。このことから同時にいえることは、モルフォルギーはそれ自身が目的にされるのではなくて、たえず深められていく認識の道程における最初の不可欠な出発拠点である。
 モルフォルギー的考察法の特性を明らかにするには、最後になお、その強い実践性に触れておかなければならない。その実践性は運動に直接に接近させるし、またその結果を実践に生かすこともできるようにするものである。
 モルフォルギー的研究法の即実践性は体育指導者にとってとくに大切である。体育指導者はその日の教育実践のなかで、意識して、また意識もしないで、いつもモルフォルギー的運動分析を行っている。スポーツ指導者の目の前には、さまざまな形式で、運動系の成立過程、漸次の形態発生がその不完全さや動きの欠点を瞬間的な印象分析のなかで確認しようとしている。たとえば、足かけ後ろまわりの失敗を見抜くということは、モルフォルギー的には必要な導入動作が適切に行われなかったことを確認することである。指導者がさらにこの現象の原因に問いかけるときに、物理学的・力学的・解剖学的・生理学的あるいは心理学的所見を参考にできよう。この事例では、原因は心理学的領域にあるかもしれない。つまり回転のための位置エネルギーを十分にとるために、導入として反対方向に振りあげることが恐怖心によって妨げられてしまったのだろう。
 授業を行っているときには、瞬間的な印象分析の形態で行われるので、当然のことながら誤りが入りこむことがよくある。そこでこのモルフォルギー的運動分析では映画の助けを借り、方法論的・体系論的形式で徹底的に行われることになる。研究していく指導者はリング・フィルムによって運動経過を個々の運動局面や個々の映像面のなかで規定することができる。その場合、正確な測定や数量的把握がなされるのはモルフォルギー的に確認されたことを保証し、検証するのに必要であるときだけである。数値というものは、場合によっては、直接に見たり、考察して調査した事柄の重要な検証や確認となることがある。
 われわれが用いるモルフォルギー的考察法は、科学的運動研究にとって第一の段階であるだけでなく、実践に身をおいているスポーツ指導者に、解剖学的、生理学的、物理学的、心理学的また社会学的知識を有意義に利用する道を指摘するものである。というのは、スポーツ指導者は感覚的・知覚的範囲にとどまっていてはいけないのであって、その発生の諸条件や原因上の諸関連を追求しなければならないのである。ここで医学の身近な例が念頭に浮かぶものであるが、医学はこのような課題を展開していくのに病因学の概念を用いている。自分の感覚による診断にだけ頼っているのではない。彼はむしろ客観的に確認されたあらゆる所見、その全知識、自身の諸経験を動員するのである。同様にして、スポーツ指導者は自分の科学的知識や自身の運動経験を参考にしているのである。個別諸科学は規定されている諸要因にたいする疑問に、部分的にこたえることだけはできるのである。
(『マイネル スポーツ運動学』クルト・マイネル著、金子明友訳pp106〜108 )

運動モルフォルギーの概念は厳密に記述されている。この記述をおっておくことによってゲーテ本来の形態学思想についてもふれておきたい。
運動モルフォルギー(金子明友における訳注64より)
Morphologie der Bewegung の訳語。Morphologieというのはゲーテの造語によるものであり、彼は1817年に Zur Morphologie という自然科学論集の第1巻、第1冊における“Die Absicht einge!eitet”という論文のなかで正式にMorphologie の語を提唱している。もっとも、ゲーテは1796年頃から書簡や日記のなかでMorphologie の語を用い出しているといわれるが、公刊された論文は1817年になっている。ゲーテの用いたこの新しい学説は現代の生物学における形態学よりもっとダイナミックな概念であって、彼はその論文のなかで次のように述べている。“形態学というものを紹介しようとするならば形態について語ることは許されない。やむをえずこの言葉を用いる場合があっても、それは理念とか概念を、あるいは経験において一瞬間だけ固定されたものをさすときに限ってのことである。ひとたび形成されたものも、たちどころに変形される。だから、多少とも自然の生きた直観に到達しようとすればわれわれ自身が、この自然の示す実例そのままに形成を行えるような、動物的でのびやかな状態に身をおいていなければならない”
(前田富士男訳、ゲーテ全集14、潮出社)
 このようにダイナミックな概念をもつゲーテのMorophologie は現代において再び脚光を浴び、生物学者のPortmannや物理学者のHeisenberg らによって近代科学の抽象化傾向に対してゲーテのMorophologie への回帰が叫ばれるようになってきている。したがって、ゲーテのMorophologie が新しい運動理論の基礎付けとしてBuytendijk によって取りあげられたのも故なしとしない(1948年)。Buytendijk は運動現象に対して初めてMorphologie der Bewegung の不可欠性を強調し、さらにMeinelやFetz,Nattk ämperらがスポーツ科学におけるBewebungsmorphologie の必要性を提唱して今日に至っている。今日では、Morphologie der Bewegung あるいはPhӓnographie der Bewegung という研究領域として確立されているが、本書では“形態学”の訳語を当てずに、ゲーテの造語をそのまま“モルフォロギー”とおきかえることにした。ギリシア語に語源をもつMorphe が形態を表すとして“形態学”とすると、生物学の一部門の静的な語感を拭い切れず、ゲーテの動的な真意を損なうことを恐れたものである。
 マイネルは本書の全篇を通じてMorphologie の重要性を説き、現実の運動現象を直観によってその構造を明らかにすることに努力しているが、これはまさにゲーテが“眼の人”であったのと同様に、マイネルはスポーツ運動の現象形態を直視する“眼の人”であったといえよう。したがって、本書はpӓdagogische Bewegungslehre というよりはむしろmorphologische Bewegungslehre というほうが理解を深める手掛かりを与えてくれるであろう。