『臨床哲学小説 亡霊にとりつかれたクラタカソウスキ』

 
クラタカソウスキには亡霊がとりついていた。クラタは本を読むのが好きな青年でドストエフスキーの『悪霊』を読んでいた。しかし、あまりにのめり込みすぎて東方正教会に入信し、その教会で亡霊のアクネトードにすっととりつかれてしまった。クラタは帝都大学文学部哲学科の一回生だった。語学が苦手でコンプレックスを抱いていた。内なる亡霊は「何故でられないのだ。おまえは出席できるだけの学力があるではないか」とつぶやいた。クラタは教室の圧迫した雰囲気が苦手だった。
「ひとが好きではない」
と亡霊に言ったら、
「それは嘘だ。明るい色のTシャツを着ているではないか」
と一蹴されてしまった。つねにアクネトードはクラタと対話していた。
 クラタカソウスキの日常は淡々としていた。朝5時頃に起き、下宿からジョギングに出かけた。4kmほどジョギングした。それから授業のレポートや小説をノ―トパソコンで書いた。
「小説を書くことは小説を読むことの何千倍も難しいし、体力もいるのに何故おまえは小説を書くのだ」
と訊いてきたのでクラタは
「小説でしかなしえないことがある」
と答えた。クラタの父親は浄土真宗大谷派の僧侶だったが、2年前に心筋梗塞でこの世を去った。文盲だったので本はクラタが父親にむかって音読して読み聞かせてあげた。クラタの父は特にギリシア悲劇を好んだのでクラタは躍動感たっぷりにギリシア悲劇を音読した。
クラタの父は駄賃としてお菓子をくれた。そのこともアクネトードは知りつくしていた。「君の父は立派な僧侶だった。文盲でありながら大学の哲学科の教授を務めあげた」
ときどきアクネトードは警句を吐くが、クラタの父にまつわることが多かった。クラタが家につくとその話をする。クラタはもう聴き飽きたとおもっても延々とアクネトードは話つづけた。ジャズやクラシックのCDを聴いているときでも。
 
クラタの叔父は兄弟よりも深い絆で結ばれていた。クラタは「家族の存在」について考えていた。いったい家族とはぼくにとってどんな存在意義をもっているのだろう。魂の深いなかで考えていた。しかし、そのことについて、アクネトードは一切介入しようとはしなかった。クラタは声なき声を聴くことができた。そのために小説を書くことができた。古今東西の文学を紐解いてみると「父親殺し」をモティーフとした作品が多いことにクラタは驚かされた。ギリシア悲劇の『オイディプス王』、シェイクスピアの『ハムレット』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』など。クラタのゼミではドストエフスキーの『悪霊』を題材にして「無神論とはどういう論理か」というテーマでディスカッションをやったりした。クラタの叔父は私立の学校で教師をしていた。クラタも教師を目指そうと考えたことがあったが人間嫌いな性格のために教職を履修することをあきらめた。
 
クラタが小説を書く時間帯は深夜の3時〜6時までときっかり決まっていた。長編小説はめったに書かず、短編小説ばかり書いていた。小説を書いている時は必ずピアノの音楽を流していた。クラタの身体によく合う音楽だった。小説を書くことによって時と対話することができた。それは亡霊と対話することよりもクラタにとって良いことにように思われた。ピアノの音楽はバッハ、リスト、ショパンと決めていた。小説を書いている時でもひっきりなしに亡霊のアクネトードは現れるので困ってしまう。
「おまえの仕事は小説を書くことではないのだ」
「もっとするべきことがあるのだ」
などとひっきりなしに。
「それはいったいなに」
とこちらから尋ねてみても肝心の返事が帰ってこなかった。
 
クラタが通っている帝都大学は京都の百万遍の近くにあった。そのあたりにはちいさな古書店が軒を連ねていた。京都の街はエキセントリックな街で人間の肌あいが東京よりも親密だ。クラタの住んでいるところは大徳寺の近くのちいさなアパートだった。小説を書くあいだはときどき静岡の沼津に帰ることもあった。クラタは京都御所や鴨川を散歩して魂の安らぎを得ていた。小説執筆という文化的な雪かきをすることは魂を沈底させることでもあるのでバランスをとることを必要とした。内なる亡霊との対話は歴史との対話でもあった。アクネトードは200年を生きてきた歩く歴史家でもあった。もとはギリシア悲劇の『アンティゴネー』のコロス(合唱部隊)の一員であったらしい。アクネトードは『アンティゴネー』を古典ギリシア語で暗唱することができた。クラタは古典ギリシア語がわからなかったために宇宙語を話していると思っていた。クラタは自分自身に怒っていた。語学の授業に出席することができないためだ。その怒りを小説執筆にぶつけていた。
 
クラタはアナザーワールドという森の小屋にいって定期的にひきこもった。小屋には村上春樹夏目漱石ドストエフスキーの本がならんである。そして、ピアノが置いてあった。クラタはピアノとアコースティックギターを弾くことができた。ボブ・ディランをコピーしていた。ピアノはリストの『巡礼の年』やバッハの『平気律クラヴィーア』を弾くことができた。小説を書くときにクラシックやジャズを聴いて書いていると一種の秩序が文体のなかで生まれた。それは長距離ランナーの息づかいに似ていた。

クラタは迷っていたこのままいくと教職をとることができない。将来は高等学校の世界史の教師になりたかったのだ。『詳説世界史』を音読して世界史の勉強を密かに行っていた。音読はドストエフスキーの作品を読むときにも行われた。クラタカソウスキにとってそれは禊の行為であった。
                *
 ワタナベマキはハード・ボイルドを読むことが好きだった。『マルタの鷹』やカズオ・イシグロの作品を帝都大学の文学部哲学科二回生のときにむさぼり読んでいた。大学を卒業してからは主にアーティストに詩を提供する仕事に就いた。そして、ボーヴォワールの『第二の性』やジョルジュ・バタイユの『エロティシズム』を読んでからフェニミズム活動に熱心に取り組むようになっていった。ワタナベマキはトライアスロンをしていた。シンガーソングライティングをやっていたのでその禊の行為が哲学的なヨガとトライアスロンへとつながっていったのであろう。無意識に身体に動きを覚えこませる行為はワタナベマキを夢中にさせた。引き締まった筋肉は見事なプロポーションを与えた。エアロバイクをこいでいるときは坐禅の無の境地にいざなってくれることを身体で覚えることができた。シンガーソングライティングは手書きでおこなった。モレスキンのノートに横書きで執筆していった。1980年代の空気を喚起させるようなワタナベマキの詩は英語やドイツ語、そしてフランス語に翻訳されていった。フランス語に翻訳されたときには本屋さんでフランス文学の研究者と鼎談を行ったこともあった。
「私の文学は一貫して生の問題と死の問題この二者を包括する性の問題を孕んでいます。私の言葉はそのほとんどはナンセンス語ですが、それを飛び越えると性の問題にいきつくのです」
「それは観念的な問題ですかそれとも身体的な性の問題ですか?」
「身体と観念の問題は表裏一体です。私自身トライアスロンやヨガをやっていますが、身体と心すなわち魂はきってもきれない関係にあるのです」
「あなたの考えている魂とはなんですか?」
「観念的なものではなく身体の循環に由来しているものだと考えています古代ギリシアの考え方です」
白熱した議論が展開されてお決まりのようにワタナベマキの詩集の即売会が書店でおこなわれた。

 ワタナベマキは予備校の世界史の講師をすることで生計を建てていた。詩を書くだけでは食べていくほどこの世の中は甘くできてはいなかった。世界史を語るために『詳説世界史』を頭のなかにたたきこんだり、休暇ができるとなるべく中近東の国へ旅に出るようにした。イスラーム文化に関心があり、研究もしていた。夜になると詩を書きながらジャズの音楽を聴いた。マイルス・ディビスのジャズが特におきにいりだった。ワタナベマキは深夜になるとドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読むことを日課にしていた。もう、4回以上は読んでいることだろう。深夜になると「死の観念」がワタナベマキに押し寄せてきた。それを避けるのではなくあえて正面から向き合うためにもドストエフスキー作品を読みこむことは必要だったのだ。予備校の仕事があるのでシンガーソングライティングは深夜におこなわれた。深夜の2時から明け方の6時頃まで。昼間は予備校教師、夜は詩人という稀有な存在だった。6時をすぎると1時間ばかりジョギングに出かけた。すべての観念的な呪詛をふるい落としていくようだった。

 ワタナベマキが世界史の予備校講師になったのは父親が高等学校で世界史を教えていたことが大きかった。母親は大学の哲学科でシモーヌ・ド・ボーヴォワールヘーゲル、そしてフロイトについて研究をしていた。父親も母親も哲学的思弁で議論をすることが多かったので自然とワタナベマキも大学に進学して哲学を学びたいという気持ちが強くなっていった。しかし、父親はワタナベマキが哲学科に行くことを反対した。「実学の時代、リトルピープルになってはこまる」と言ったりした。そのころから京都にある喫茶店の柳月堂にいりびたるようになった。静かな店内ではクラシックの音楽がながれており、ドイツ語の勉強やレジュメを書くことに時間を費やすには最適の場所だった。その頃から親友のサオトメヨシコと交流をもつようになっていった。フランス語が堪能でジャック・ラカン精神分析をパリで受けていた。完全なるラカニアンであった。しかし、彼女からは難しい理屈を聴かされるのではなく。フランスの現代の文化についてそして、サオトメヨシコ自身のワーク・アウトについて話すことが多かった。彼女はスイミングとコアトレーニングを行っており、現代文明においていかに身体を使うことが大切であるかを説いていた。また、サオトメヨシコはジャズバーを経営しており深夜になると小説を書いておりときどき『群像』や『文學界』に応募していた。ワタナベマキとサオトメヨシコのあいだには親密な時間が流れていた。

 サオトメヨシコはシェイクスピアギリシア悲劇の演目を中心に行う劇団に所属していた。ギリシア悲劇では幕がなく、まわりを取り囲むように客席が配置された独得の様相を呈していた。コロス(合唱部隊)が悲哀に満ちた歌を歌い、仮面をかぶった登場人物たちがカタストロフィに充ちた演技をおこなった。シェイクスピアの演目では幕があり、悲劇にむかって紆余曲折をへながら演じられた。脚本は全てサオトメヨシコが担当した。リメイクよりもユーモアをふんだんに盛り込みながら脚本を仕上げていった。ワタナベマキはかなりの頻度でサオトメヨシコの劇を観に行った。仕事でフロイトの『精神分析学入門』をドイツ語から日本語へ翻訳することがあったためだ。サオトメヨシコの劇は歴史を踏襲しており自己の抑圧の解放つまりゴーストバスターの役割を担っていた。サオトメヨシコはガルシア=マルケスの『百年の孤独』を舞台化する計画をいだいていた。マジック・リアリズムの傑作をどう舞台化するのか、見物だなとワタナベマキは思った。

 ワタナベマキはサオトメヨシコのジャズバーに行った。店内にはマイルス・ディビスの音楽がかかっていた。複雑な主題がここちよかった。今日は自作の詩を皆の前で朗読する日だった。とても緊張したがなんとか朗読することができた。詩のモティーフになったのはシェイクスピアの『ハムレット』だった。
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 クラタカソウスキは亡霊に悩まされていた。しかし、父の墓参りにいくとしばらくいなくなることがわかった。そしてつぎのような結論にいたった。あの亡霊は父なのだ、と。「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と唱えると亡霊は消えていくこともわかった。そして聖書の文句を唱えると立ち去ることもわかってきた。亡霊との和解が成立しはじめたのだ。
抑圧していた欲望を解放するためにクラタは小説を書き始めた。ドストエフキーの『悪霊』のなかに登場する『スタヴローギンの告白』に近いものがあった。亡霊と和解が成立したためクラタはすらすらと小説を書くことができた。(終)