『臨床哲学小説 アクネトードと私たちその10』

私は詩と小説を書くことでなんとかもちこたえていた。そして生ギター。これがなかったら私は希死念慮にうなされていただろう。太宰治宮沢賢治のなかに自己を見出し、そこで他者との交歓をはかろうともがいていた。自己陶酔の小説を書かないためにもテクストのなかにリアリズムを見出していかなければなるまい。なるようにしか人生はならない。無頼派と新戯作派をきどってみてもそれは単なる言葉遊びにしかならないが、価値はあるだろう。あら、不可思議な世界がやってきた。祝祭のはじまりだ。G君のなかには神学のパラドックスがつまっている。私は「宮澤バンド」のために詩を書いて送ることにした。

「道化の阿呆者」

道化の仮面をかぶった阿呆がやってきた
彼女のためにおおぼらを吹いている
聖なる華に歌え
不可思議なマジックに酔え
ぐるぐるとまわる摩天楼
泥と汗にまみれなければ
生まれるものも生み出されもしない
神学のマジック
内的なロジック
ギターは吠える
いつまでもあるとおもうな金と親
言葉遊びはもうやめた
永遠の関白宣言
適当に生きることは真剣に生きること
 
 
 私はこれだけ書くと郵便ポストに送った。そのあとはギターの練習をした。Fのコードが押さえられなくて懊悩した。ウィスキーを飲んだらすべて嘔吐してしまった。吐瀉物が私の狭い部屋にひろがった。ビールを飲むこともお薬と合わないことからやめることにした。適当に生きることは真剣に生きることに等しい。作家をきどることはもうやめた。すると不可思議なことに詩聖が私の前に現れた。そう、アクネトードだ。「すすめ、怠け者よ」ただそれだけ呟いてまた奥のほうにいって消えてしまった。適当にぼちぼち生きることはかんたんなようで難しい。私は気が短い。たぶん江戸っ子よりも気が短い。あなた、あなたとMが呼ぶ。ごはんができたようだ。死ななないまじないにつくる白米に味の素をかけて食べる。豪快に3杯食べた。食べたらあとは寝るだけだ。寝ているあいだに詩をつくる。寝ている間にこんなことがあった。私は富士まで電車で旅をしてビジネスホテルで泊まることになった。そこにはなぜかわかい女性のひとがフロントにたっている。私の泊まる部屋は相当な高さにあった。お客さんのなかにはおとしをめした団体のお客がいる。げらげらわらいながら世間話に花をさかしていた。そのような夢。おちのない夢。どうしようもない夢をみてしまう。