『臨床哲学小説 アクネトードと私たちその6』

 私は音楽を聴くと自然と文章を書くことができるようになっていた。斉藤和義チャイコフスキーの『くりみ割り人形』は執筆に欠かせない。頭がもやもやとした陽炎のなかで書いている。明確なイメージというものはない。もしかしたらこれは作曲に近いのかもしれない『二コマコス倫理学』の訳者でもある高田三郎先生も音楽には明るかった。艱難辛苦な文体なのだけれど、味わい深い文体で書かれている。K先生に「『二コマコス倫理学』は何のために書かれたのですか?」と尋ねたら「根性を叩き直すために書かれたのだよ」と仰っていた。最近になって古典ギリシア語を勉強に熱を入れ始めたので西洋古典学会のHPをよく見て記事を読むようになった。語学をやるとギターを弾くのと同じように精神衛生上いいことを発見した。K先生には坂口安吾の『勉強記』を読むことを薦められた。神経衰弱になやむ主人公がパーリ語サンスクリット語を学ぶうちに神経衰弱を軽減させることに成功するという短編小説だ。また、K先生は「長編小説よりもむしろ短編小説を書くほうが難しい」とも仰っていた。

 G君は大学院に進学した。専門は神学だった。記号学に関心があるらしく。ウンベルト・エーコーの『フーコーの振り子』を小脇に抱えて授業に出ていた。勉強がよくできたので私はいつもG君のことを羨ましく思っていた。その気持ちを作詞や小説を書くことによって昇華していった。「宮澤バンド」はライブハウスを転々としながらバンド活動をしていった。土着精神に根差したバンドなのでおこさまからお年寄りまでファン層は厚かった。アナガタヒロシ君がボーカルとエレキギターを担当し、ワタナベマリコがベース。オオシママサタカがドラムをやっていた。
行く先々のライブハウスはビールの汚れとびりびりに破けたポスターが貼ってあり、ゆかはてらてらと光っていた。LIVEは熱気がむんむんとたちこめていた。

 アナガタヒロシは細身で外套をいつも身につけていた。フェルト製の帽子がお気に入りで「ルックスが宮沢賢治
によく似ている」という理由でリーダーを務めることになった。詩もよく書き、どことなくスナフキンにも似ていた。詩は手書きでファックス用紙の裏に書いたり、そのままパソコンに打ち込んだりして書いていた。貧乏揺すりをするのが彼の癖だった。いつもボイスレコーダーを持ち歩いておりボイスパーカッションでメロディを創っていた。
(つづく)