『臨床哲学小説 アクネトードと私たちその5』

 私は朝早く起きて執筆することが好きだった。夕方の6時30分にはもう寝てしまう。そして午前0時に起きて執筆活動をしたり、Twitterをやったりした。バンド活動の新聞を書くこともやっていた。バンド活動にはこうしたこまごまとしたことが必要なのだ。G君とはメールのやり取りをした。G君も博学で小説をかいていた。私は小説を書くために『シナリオの書き方』という本を必要としたが、G君は頭のなかですべて小説を組み立てることができたので羨ましかった。G君の小説には必ずバンド活動の描写があって私たちの「宮澤バンド」の活動が投影されていたので文芸誌にのったG君の小説を私は注意深く読んでいた。G君が「宮澤バンド」の珍道中をおもしろおかしく書くので私はいつも感心してしまう。

 Mがようやくドイツから帰ってきた。ドイツ訛りの日本語になっていたので驚いたが2、3日で慣れてしまった。「私ハイデガーの遺稿を日本語に翻訳する仕事を任されたのよ」と言ったので私はのけぞってしまった。私はハイデガーの『存在と時間』を何度か読んだことがあったが内容が難解でよくわからなかったのに妻はその先をいっている…。新しい訳が出たので読み込もうと思った。それからMは童話の翻訳の仕事を任されているらしい。Mの鞄のなかからこどもむけの雑誌や小道具そして童話集がでてきた。G君にメールでそのタイトルを教えたところ民間伝承文学の作品らしかった。G君は何故だか、記号学と神学に詳しかったのでこういうことには慣れているらしかった。アクネトードは「お前もこども向けの童話を書くかあるいは翻訳してみたらどうだ」と言われた。ロシアのトルストイの民話『イワンの馬鹿』や『光あるうち光のなかをあゆめ』を翻訳したいとかねがねおもっていたのでロシア文学を翻訳することにした。

 それからというもの、私はロシア語の勉強に熱をいれることになった。体操教室と小説と翻訳の三本柱の仕事でロシアの大地の叡智を学びながら執筆していった。執筆するときはチャイコフスキーの『くるみ割り人形』を聴きながら執筆していった。そのうちロシア語で書かれた体操理論書を読むことができるようになっていった。そこまでの過程には文法書をまるまる筆写するという努力があった。小説の仕事は一週間の出来事を描写した『杜嶋先生の華麗なる一週間』を執筆していた。主人公の杜嶋哲彦は大学の教授、古典ギリシア語と古代西洋哲学史を大学の哲学科で教えるかたわら文藝部の顧問となり奇妙奇天烈なキャラクターの部員に戸惑いながらも人間的成長をしていくという教養小説である。ちなみに、この小説にはモデルがあってトーマス・マンの『魔の山』がモデルになっている。魔の山とはスイスのアルプス山脈のことだが、そこでの保養地に主人公のハンス・カストルプが行くことで人間的な成長をとげていくというドイツ文学の傑作である。

 東北の血が濃い私は口数が少ないかわりに文章を書くことになると饒舌になり、気が短く、些細などうでもいいことに命がけになる。極端から極端に生きるので何事も失敗しやすい。ロシア人的な粘着気質なのだ。それに対して細君のMは何事も計画を立ててその通りに遂行し計画に少しでもほころびがあると訂正をほどこし、やりなおす。大きな失敗も少なく、ゲルマン人的な勤勉実直さがある。しかし少しヒステリー気味なので分裂気質的なところがある。

 『杜嶋先生の華麗な一週間』を書くために神保町へいってギリシア悲劇アリストテレス哲学の本を買ってきた。
杜嶋哲彦は一貫性のない行動をとるため他の生徒に「不可思議な存在」というレッテルを張られている。それもそのはず杜嶋は本丸に突撃するのではなく外堀を埋めることで人生を謳歌しているからだ。気まぐれですぐに授業を休講にしたり、「この授業は古典ギリシア語の授業でよかったよね」と質問して生徒を驚かしたり、「いま君の時計だと何時なの」と腕時計をわざとしないできたりする。ギリシア哲学を教えるかわりにギリシア悲劇について論じたりもしたりして生徒からひんしゅくをかったこともあった。そして、研究室にはいつも枕を常備してあり昼寝のときにはどこのビジネスホテルからとってきたのかしらないが「わたしを起こさないでください」という札を研究室のドアノブにぶらさげたりする。そういうキャラクター設定が出来上がるとすらすらと書くことができた。
(つづく)