『臨床哲学エッセー ボイスレコーダーと読書』

最近、沼津市立図書館で借りてきたギリシア悲劇ボイスレコーダーに吹き込むことが趣味になっている。『オイディプス王』と『トロイアの女』を吹き込んで繰り返し聴いている。Twitterをやりながら聴くことができるのでものぐさなぼくでもなんとか血となり肉となる読書体験をすることができる。また、聖書の『ヨハネの黙示録』とアリストテレスの『詩学』も吹き込むことに成功した。これもまた吹き込んでいる『薔薇の名前』という小説はボローニャ大学教授のウンベルト・エーコがその博覧強記の筆でもって著されている。その作品のなかではギリシア悲劇をおもに扱ったアリストテレスの『詩学』の第二部喜劇について書かれたことを修道院が必死で隠そうとするのだが、探偵のウィリアムが助手のアドソとともに謎を解明していくという筋書きだ。これでもかこれでもかと修道士探偵
ウィリアムの博識ぶりを堪能できる修道僧見習いのアドソは師のウィリアムの推理力に感嘆せずにはいられない。
この構図はシャーロック・ホームズとワトソンの関係を思い出させる。
 
 ドストエフスキーの『罪と罰』もものぐさなので江川卓先生の『謎解き『罪と罰』』(これもまたボイスレコーダー吹き込むつもり)で予習しながらこれもまた市立図書館でかりてきたロシア映画罪と罰』を見ている。ロシア映画は長い。ギリシア悲劇を読んでそこに法廷弁論のような会話のやり取りが、刑事とその金貸し老婆を殺した法学部の青年ラスコーリニコフのあいだのやりとりが秀逸だ。

 古典ギリシア語をしっかりと学びたいという欲がもぞもぞと立ち上がってくる。実家にはギリシア語辞典(古川春風編)とリデル&スコットの希英辞典があり、『ギリシア語入門』田中美知太郎・松平千秋と『CDエキスプレス古典ギリシア』荒木英世がある。ロシア語を学びながらやっていきたい。

 ロシア語に関しては黒田龍之助先生の『外国語の水曜日 学習法という言語学入門』という名著がある。ぼくは火を見るより語学が嫌いだが、黒田龍之助先生の本は、語学のおもしろさを詰め込んだお弁当箱のような様相を呈している。

そのなかでも「外国語学習にとって最も大切なこと」というエッセイは秀逸だ。少し長いが引用しておく。

 さて、この節の題名にはみなさん期待をよせていることだろう。なにか秘策でも伝授してくれるのではとお考えだろうか?外国語学習の本にはこの種のテーマがつきものである。しかし多くの場合は非常識的なことだったり、反対に実行不可能なことだったりする。あまり実用的でないこともよくある。
 では、わたしの考えはどうかというと、常識かどうか、とにかく呆れるような内容である。しかしこれこそが必要だと心からしんじているのだ。
 外国語学習にとって最も大切なこと、それはやめないことである。
 「続けること」なんていう積極的なものではない。とにかくやめない。諦めわるく、いつまでたってもその外国語と付き合っていこうという、潔くない未練たらしい態度が必要なのである。
 大学では外国語学部に籍を置き、夜の語学学校でも勉強してきたが、思い返してみればわたしより優秀な人はいくらでもいた。そういう人は授業中なんかも必ずキチンと答えるし、宿題はやっているし、そもそも前回やった内容をしっかりと身につけていた。わたしといえば、うまく答えられなかったり、宿題がちゃんとできていなかったり、
そもそも文法事項がキチンと頭に入っていなかったり、さらには二日酔いだったりしてぼろぼろだった。けれども授業は休まなかった。恥ずかしい思いをしながらも諦めなかった。

 「現代文の秘策を伝授してくれない」と叔母に言われたことがある。上述のとおりに現代文も外国語と似ているところがあるので日本語の語彙を増やし評論文でも小説でも自分の言葉で要約するしかない。外国語には近道はないのだ。