『臨床哲学小説 アクネトードと私たち』その2

 私はドストエフスキーと論争をしたことがある。彼はてんかんに苦しんでいた。同じ精神疾患を抱えている者どうしだったので話がはずんだ。このことはアクネトードもよく知っており、トルストイとも友人の間柄だった。細君のMにはアクネトードは見ることができなかった。アクネトードは死者と話をすることができた。私は本屋に行くことが好きだった。ドストエフスキーの著作や小林秀雄の評論を読むことが好きだった。

 執筆するときはモレスキンのノートで縦書きで心に浮かぶよしなしごとを書きつらねていった。Mは私のモレスキンのノートを盗み読みして嗤っていた。小林秀雄の評論は学ぶべきこと全てが書かれているようだった。Mは時々ドイツへ遊学しに行った。ベルリン自由大学で哲学の博士号を習得するためだった。Mの研究テーマは「ハイデガーにおける存在論」だった。

 私は趣味でギターをはじめた。むかし、私はバイオリンを習っていたことがあるが途中でやめてしまった。バンド活動もしたことがある。主に宮沢賢治の詩に音楽を合わせた古風なバンドだった。むかしにかえることで安心立命を望んでいたのかもしれない。

 したがって、私は希死念慮を散らすために創作活動に励んだのだった。また、私の宿敵である語学の勉強も力を入れはじめた。語学の勉強といってもドイツ語・古典ギリシア語・ロシア語である。もっとも力を入れているのはロシア語で、いつかはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を原書で読みたいと考えている。亡霊のアクネトードはロシア語・古典ギリシア語・ドイツ語を自由に話すことができるのでアクネトードの言動を筆記するのは困難を極めた。

 Mはよくマルサン書店の近くの「やば珈琲」で珈琲を飲みながらブログを書いたりTwitterをすることが好きだった。Mは自傷行為を繰り返していた。化粧のポーチにはいつも小さな剃刀がしのばせてあった。「やめたほうがいい」と言ってもいっこうにやめないので困ってしまった。アクネトードにそのことを相談してみたところ、「トルストイの『懺悔』を薦めてみたら」と言った。このまえ観たトルストイの伝記映画で「『懺悔』を読んでわたしかわったの」とヒロインが告白するシーンがあったのでこれだと思った。さっそく薦めてみようと思ったが、難しいので『光あるうち光のなかを歩め』と『人生論』を薦めることにした。そうしたら自傷行為はおさまった。

 私も統合失調症を抱えており、ベッドのところに首をくくろうと考えたこともあり、剃刀で頸動脈を切ろうと思ったこともあった。MやK先生にもうしわけない気持ちがこころにブレーキをかけたらしい。実行にはおよばなかった。
K先生は博識な先生であだ名はwalkingdictionaryだった。また英語が堪能で日常会話だけでなく生徒の英文レポートの添削を買って出ることもあった。K先生は小説を書くことが好きで主に心理小説や歴史小説を書いていた。

 私には体操の国際審判員の資格をもった叔父がいる。その影響でクルト・マイネルの『マイネル・スポーツ運動学』を読んだり、金子明友先生の『スポーツ運動学』を読んで身体感覚意識について学んでいる。メルロ=ポンティの『知覚の運動学』やハイデガーの『存在と時間』を読んで、精神疾患である統合失調症現代思想がどう活かせられるかが目下の課題だと思っている。幼児教育に関心があるので叔父の二番煎じにならないようにしていきたい。
(つづく)