『臨床哲学小説 アクネトードと私たち』

私は保育園で体操を教えていた。昼間は教師。夜は作家の二重生活で生計を立てていた。小説を書くことほど難しいことはなかった。また、保育園の園児たちも身体を動かすことが苦手な子が多かったので教えることは困難を極めた。私にはKという先生がいた。K先生は私が書生時代にお世話になった大作家である。トルストイ主義者で白樺の森のなかで生計を立てていた。K先生は英語の教師でもあった。K先生からは受験英語を教わったり、小説の書き方を教えてもらったりした。

 私にとって小説やエッセイを書くことは一種のセラピーでもあった。内面に抱えている闇を外面にさらけ出すことによって癒しを得ているのだった。トルストイプルーストから小説に学ぶことができた。そして、私は統合失調症を患っていたのでMという細君の力なしでは小説やエッセイを書くことはできなかった。K先生とは思想や哲学の面で好みが一致していた。私が若かった頃、私は神父になりたかった。そのためにK先生のトルストイへの傾倒は私にとって大きな励みになっていた。トルストイの『戦争と平和』は6回読んだことがある。何回読んでも心の琴線にふれた。希死念慮に憑りつかれたときには、小説を書くかあるいは『戦争と平和』を読むことにしている。私は四ツ谷と武蔵境にアパートを借りていた。そこで、ラップトップで小説やきめられたエッセイを執筆していた。執筆した文章はブログにアップした。K先生は時々、私の事務所に遊びに来ては蔵書を見回したり、クリエイティブライティングについて座談したりしていた。

 細君のMはエッセイストだった。SMSに関心があり、自分の思想をネット上で公開してノマド・ワーカーのように東京のあちこちを歩き回っていた。ノマド・ワーカーとは場所を決めずにあてどなく彷徨い働く人たちのことである。東京のCaféでも、「ここはWiFi対応していますか?」と必ずたずね、席につくとラップトップをひろげる。メールマガジンを有料で書いている。その内容の3割はTwitterで世界に発信していたものをまとめたものだ。細君のブログは見たことはないが、どんな内容なのだろう。

 私の実家は沼津市にある。母と祖母との3人暮らしだ。この家にはアクネトードという亡霊が棲んでいる。アクネトードは亡き父の亡霊で体操が好きで、私にいつも体操の噺をするために絡んでくる。まるで座敷童だ。アクネトードは旧ソ連時代の体操選手が好きでよくその噺をした。私はあまり興味がなかったので話半分に聞いていた。それでも体操教育に活かせることもあったのでノートにアクネトードの言動を記録していった。

 私は四ツ谷にあるミッション系大学に通う大学一年生であり、キリスト教系の保育園で体操を教えていた。私は体操競技の経験がまったくないのだが<雰囲気>だけで体操の指導者となってしまった。金子明友先生の教本を読み漁ったり、体操の国際審判員の資格有する叔父に聞いてみたりして「体操」の〝た〟の字を学んでいった。ミッション系の宗教教諭目指している私にとって、叔父は力強い存在だった。叔父とは毎日、7時30分になると電話をかけて対話することになっている。まるで、エッカーマンが書いた『ゲーテとの対話』である。あまり進展のない対話が繰り広げられるのだが、私にとってはある意味勉強の時間となっている。

(つづく)