『臨床哲学小説 深い森のなかで』

 小説家の貴光は小説の取材のために「深い森」と呼ばれている森へ行った。深い森はかなり険しい森だった。夜に出発したので、あたりは静寂と暗闇とに包まれていた。その「深い森」には工藤精一郎が小屋を建てて住んでいた。工藤は小説家だった。小屋の前には池があり、そこで水遊びをすることができたが、今は冬なので水遊びをするわけにはいかない。工藤はミステリを書くことを得意としていた。
「ミステリのプロットを君に見せてあげるよ。」
「そうですか、ありがとうございます。」
 そう言って工藤は小屋の奥の方から原稿用紙のウラ2Bの鉛筆でびっしりと書かれたショートショートのプロットを見せてくれた。
「これがレシピさ」
 貴光は一枚、一枚大量にあるショートショートのレシピを見ていった。どれもこれもおしゃれな文体で書かれていた。
「お茶が入ったわよ」
工藤の奥様である妙子さんがお茶とコーヒーを持って来てくれた。妙子さんはロイド眼鏡をいつもかけていた。妙子さんは詩人でもあり、作詞活動もおこなっている。
 貴光は文学的才能が無い事に悩んでいた。その事を相談するために工藤の所にやってきたのである。工藤は、
「君の文章は硬い」
と言った。貴光は何をやるにしても“力み過ぎた”そのために文章にもそれが投影されてしまっているのである。
 貴光は詩やショートショートを好んで書いた。それが一番自身の哲学を表現できると考えたためだ。エドガー・アラン・ポーの詩を貴光は良く読んで詩の研究をした。ショートショートヘルマン・ヘッセを要約して他者に話すことによって“おもしろいショートショート”を書こうとした。
 貴光は工藤に頼んで小屋に二週間だけ泊まっても良いか訊いてみた。するとあっさりと了解を得ることができた。
 工藤の部屋には大きな本棚があり、整理整頓された本たちが貴光に威圧感を与えていた。
貴光は妙子さんの隣の部屋に泊まることになった。東都大学での美学の課題レポートを仕上げるために貴光は工藤に頼んで何冊かの本を借りた。もう深夜になってしまった。2時間程かけてレポートを仕上げると貴光は長編小説の執筆に取り掛かった。
<つづく>