『臨床哲学小説 黒い森』

 私は黒い森に小屋を建てて住んでいる。夜になると周りは暗闇の世界につつまれており、眼をつむっても開いても同じくらいの暗さである。そこで私は妻と一緒に小説を細々と書いていた。妻は週末になると街のほうへ降りていき、ヨガに行って身体を鍛えていた。
 黒い森はドイツにあった。私は大学の哲学科で美学を専攻した後、教育学へと進路を変えた。教授と馬が合った。卒論は自分の創作を書くことになった。教育学のなかでもシュタイナー教育という教育法に私は関心を持ち、ドイツに留学して、“黒い森”で勉強と研究を続けていった。
 私には山田貴光という親友がいた。貴光は流体力学量子力学を人体の動き方から研究していた“変わり者”だった。貴光は幼い頃からクラシック・バレエをやっており、姿勢が端正であった。私はバレエは科学ではないと自負していたので、京都のいきつけのbarで口論になる事もあった。そのわりに私は京都のとあるバレエ・スクールで一年間バレエをやっていた経験があるので、貴光の風上にも置けないのである。
 妻と出会ったのは、私が演劇部で台本を書いていた頃だった。妻の妙子はストイックな女性であった。妙子は演劇部で演出の役をやっていたが、灰皿を投げつけたり、役者にみせる面では仏の面と修羅の面とがあり、団員たちに恐れられていた。妙子は三歳のときに父親を亡くしている。その事を知ったのは大学一年生の頃であった。
「実は父は幼い時に亡くなったの」
「そう、ぼくもだよ」
 私は黒い森のなかを歩くことにした。小説のアイディアはこの散歩から生まれることがほとんどであった。私の郷里は沼津であった。千本松がよくドイツの“黒い森”に似ていた。どこまで行けば良いのだろう。私は迷ってしまった。すると小川に出た。
 小川にはひとりの男がたっていた。これからどうするつもりだ、と男は言ったので私は、
「家に帰りたいんです」
と正直に胸の内を答えた。
「お前の家はもうなくなっている」
男はぶしつけに言って、小川から去っていった。
 私は急いで小屋のほうへ走りだした。しかし、小屋は無くなっていた。もうだめだと思った。その時に妙子がやって来た。
 妙子はいつもより美しく感じられた。
「小説を書きましょう」
ただ一言、妙子は言った。妙子の手には寝袋がふたつに握り締められていた。