『臨床哲学小説 貴光とその家族』

 貴光は小説を書いていた。ロックの音楽ガンガンに流しながら。貴光の書く小説は教養小説がほとんどだった。
 貴光には妙子という女友だちがいた。妙子も小説を書いていたが、詩を書くという点で貴光とは一線を画していた。そして、妙子は童話を書き、沼津市立図書館で司書として働いていた。
 光男は貴光の友人でバイオリンの弾き語りができた。貴光もバイオリンを弾くことができたので時々文壇barで合奏することもあった。ふたりのセッションはロックンロールそのものであった。畳みかける詩の言葉は全て光男かあるいは妙子が書いたものであった。
 貴光の母である直恵は吝嗇であった。直恵は貴光のことを心配していた。
「なかなか芽が出ない」
と。貴光は生来の怠け者であったので、周囲の者たちに迷惑ばかりかけてきた愚か者である。夜になるとホメーロスの詩である『イーリアス』や『オデュッセイア』を諳んじたりしていた。
 光男はフランス文学に詳しく、また古典ギリシア劇にも詳しかった。貴光は光男から様々なことを古典ギリシア語をまじえながら時には易しく、時には厳しく教わった。
 貴光は「自己の世界」と「世界」とのあいだに悩み苦しんでいた。そのために貴光は小説や詩を書いて「自己の居場所」を求めていた。このことはなかなか他者に打ち明けられずにいた。直恵にも祖母の正子にも。なぐさめになったのはボブ・ディランの音楽だった。
 或る日、光男とバイオリンのセッションの時に自分の思いのたけを書きためておいた手紙を光男に手渡した。貴光はドキドキした。初恋の人に手紙を書くようなものだった。光男は静かに受け取ってくれた。
「これは妙子に渡したほうがいいのでは?」
とぼそりと言った。確かにそうかもしれない。
 貴光はその夜、なかなか眠りにつくことができなかった。時間ばかりが流れていく。
 30年後、貴光は妙子と籍を入れることになった。貴光は作家として身を立てていかなくてはならない。妙子は詩人、作詞家として自らの才能を発揮していた。これからが勝負の時である。