『臨床哲学エッセー 無意識の鉱脈を探して』

 私は無意識の深いところを描く小説を書いている。それらの小説は深夜になってから書き始める。そのうちそれらの作品をヒントに「沼津の或る一家の物語」としてまとめることにする。フランス文学のマルセル・プルーストが著わした『失われた時を求めて』へのオマージュに近い作品にしていこうと考えている。乙女の気持ちがわからないので、井上靖先生の書いた『しろばんば』を書き写す行為から谷崎潤一郎が著わした『細雪』を書き写す行為へと移行しようと思う。
 深夜、なかなか眠ることができなると私は『失われた時を求めて』を音読することにしている。そうすると、すーっと眠りの世界へといざなってくれるのである。
 大谷大学に戻ったら、ドイツ語を選択すべきかあるいはフランス語を選択すべきか悩んでいる。現在は8割はフランス語のほうに軍配があがっている。
 無意識の鉱脈を探すために私は村上春樹が著わした『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を英訳も含めて精読していきたいと考えている。そして、太宰治の作品群丁寧に読みこんでいきたい。
 掌編小説を書くことは現在、行き詰っている。ネタが枯渇してきたのだろう。原稿用紙三枚程度書くことはなかなか至難の業なのである。そして、掌編小説を書くことより難しいのは詩を書くことである。詩の言葉と小説の言葉は本質的に違っているからである。
 小説を書くときに助けられているのは音楽である。私は大抵、書きものをするときは音楽を聴きながら執筆している。文体の精度を上げるために聴きながら、考えながら書いている。文体にもその聴いている音楽のリズムが文体のリズムに憑依して文章が成り立つのである。
 言葉がまったく浮かばない時は言葉が浮かぶ時まで「待つ」しかない。言葉が天から降りてくるまで待つしかないのである。一時間でも二時間でもそうやって文章というものはできあがってくるのではなかろうか。