『臨床哲学エッセー 青年時代』

 私は高等学校時代を加藤学園暁秀高等学校で過ごした。うつ病になったきっかけは今でもよくわからないままでいる。私は「父親の死」がきっかけでうつ病になったと考えているが、父が生きていた時にはもうすでにうつ病に罹患していた。
 父の死は私の記憶に焼き付いている。それは朝のことだった。急に隣の部屋から母の叫び声が聞こえてきたので、私は急いで隣の部屋に行ってみると父がぐったりと背中を丸めたままベッドにいた。母が激しく動かしても動かなかった。私は急いで救急車を呼んだ。もしかして、と私は思った。
 私の父は救急車の中で亡くなった。私はなにもできなかったことを今でも哀しく思っていると同時に祖母の不憫さを恨んだ。もう息子は叔父ひとりしかいないと思ってしまうと推し量ることのできないやりきれなさが眼に浮かんできた。
 私は父の死後、高等学校を一年間休学することになった。うつ病はこの時もあった。しかし、この間、哲学書を読んだりして智慧を蓄えることができた。
 静岡県立図書館に行ったり、沼津市立図書館へ行ったりして現代思想の本を読んでいった。そこには「背伸びしたい」という気持ちがあったのだろう。静岡県立図書館に行っているあいだは電車通学をしている錯覚になっていた。車窓から見える富士山は夏ならば力強さを冬ならばあたたかさをたたえているようであった。
 一年間がたつと私は高等学校に戻ることになった。父と同じく私は同学年の輪の中に入ることになった。私はどちらかといえば孤独を好む人間だが、いつの間にか級友の輪の中へ入り込んでいた。おそらく級友の気遣いがあってのことだろうと考えていた。
 私は国語以外の教科は全く振るわなかった。そして、そのまま大学受験ということになってしまった。その頃から私は不登校という事態になり、叔父につれられて学校へ行くことになっていった。叔父は私の通っている学校の体育の教師をしていた。私の通っていた高等学校は受験に燃えている学校で勉強についてかなり激しいものがあった。
 私は休学していた一年間に読んでいた現代思想の影響で哲学科を目指していた。一度目の受験では見事に落ちてしまった。どうしたらいいのか全くわからない大学受験であった。
 その翌年に京都の予備校で私は再び大学受験に挑戦することになった。文学部哲学科は譲れないと考えていたためだ。なんとかひっかかったのか予備校に入った翌年には大谷大学の哲学科に合格することができた。