『臨床哲学エッセー ふたりで共に生きること』

 私はまだお付き合いをした女性がいない。北野武監督作品映画『HANA-BI』のなかで女性とのつきあいかた、生きかたを学んだと思う。北野武監督の作品には無駄なものが一切なく、撮りたいものだけが強いメッセージを残している。絵画、ピストル、そして車などのものたちは主人公の西と同じ運命をたどっていく。どうしようもない運命に立たされた登場人物たちは自分の好きな道を選ぶことができずにいる。
 「キタノブルー」と呼ばれる色彩美はその残酷なバイオレンスや運命を象徴しているかのようだ。無駄をはぶいた美学は細部にまで美しく光っている。細かい糸がまるで面をつくっていくかのように。テンポの良いカット割りは北野武監督のsenseのものだろう。
映画で繰り返し流れる「ミニマルミュージック」は耳の深奥にまでへばりついて離れようとはしない。登場人物たちの台詞ひとつひとつをとってみても無駄がなく、すっきりとしている。私は元刑事西の同僚だった男が「絵でも描こうと思うんだけど」とつぶやいた台詞が好きだった。ある事件をきっかけに少しずつ運命の歯車が狂いだす刑事たち。ある者は女性と結婚し、ある者はピストルで撃たれ、自宅で絵画を描きはじめる。運命の歯車たちはひとつの歯車を中心に回りはじめ、一番大切な者の再発見に出会うようになる。
 死ととなりあわせのなかにいる登場人物たちは、それだけに生の執着も強い。私はこの映画を観て、いまは亡き父がつれていってくれた沼津の千本浜のことを想い出さずにはいられなかった。その場所では漁師さんたちが食べ物をふるまってくれた。その美味しかったことは今でも覚えている。しゃぶりついた肴は死をあらわしており、私がしゃぶりつき食べるという行為は生をあらわしている。食べるという行為はそのふたつの営みが同時におこっている。この映画も人間そのものが映し出されている。
 私は「うつ病」と「統合失調症」を抱えているが、この映画は病気との関わり方も教えてくれた。それは「風通しの良い」関わりかたということだ。私が生きていて転換期になったことを知らされた映画だったとおもう。

当時の予告編

ベネチア国際映画コンクールまでの道程