『Kの物語』⑧ 『饗宴』―恋(エロース)について―

プラトンの哲学』藤澤令夫著を導きとして『饗宴』のエロース(恋)そして<美>におけるイデア論を考察していきたい。
藤澤は機が熟して、イデア論は『饗宴』において―それを語るのがエロース(恋)の正道をソクラテスに教えたという想定の巫女ディオティマであるだけに、そしてそれがエロースの道の窮極に来るほかならぬ<美>のイデアであるだけに―まさに絢爛と花開いたという趣きのもとにはじめて表明された。
 ディオティマは、エロースとは人間をはじめ死すべきものが「美しいものの中に子を産むこと」により自分に代わる生命を後に残すという仕方で不死にあづかろうとする欲求である、といったことをソクラテスに語りきったうえで次のように言う

『ところで、ここまでの恋の道については、ソクラテスよ、おそらくあなたでもその秘儀にあずかることができるでしょう。しかし、終極最奥の秘儀となると話しは別です。もし人が正しく道を踏んでゆくならば、これまでのことも、実はこの最奥の秘儀のためにこそあるのですが、あなたがこの秘儀をうけることができるか、私にはわかりません。それはともかく、お話しいたしましょう』(209E―210A)
P85

藤澤はおそらくこれはプラトンソクラテス的基層から発展した思想に、初めて明確自分独自の形態を与えようとすることの告示だとみなしてよいと言う。そして「最高の奥義と啓示」のクライマックスは次のごとくであった。

『すなわち、もろもろの美しいものを順々に正しく眺めながら、恋の道に関してここまで教え導かれた者は今や恋の道の終極へと向かう場面において、突如として、ある驚嘆すべき本性の美を見てとることになるでしょうそれこそはソクラテス、これまですべての労苦もまさに目指していたところのものなのです。
鄯)まず第一にその美は常にあるものであり、生じることも滅びることもなく、増大することも減少することもない
鄱)次にそれはある面では美しいが、他の面では醜いものではなくある時には美しいが、他の時には美しくないというのでもなく、これとの関係では美しいが、あれとの関係では醜いというのでもなく、また、ちょうどある人々にとっては美しいが、他の人々にとっては醜いというように、ここでは美しいが、むこうでは醜いというのでもありません。
鄴)さらにまたその美はそれを見てとった者に、何か顔のように現れたり、あるいは手やそのほかの肉体のもつどんな部分の姿として現れることはないでしょう。
鄽)他の美しいものが生じたり滅んだりしても、かのものはそれによって少しも増えたり減ったりすることはなく、また何ひとつ影響をうけることもないのです。』
P88
(210E―211B なお朴一功訳の『饗宴』を使用したために『プラトンの哲学』の本文とは若干異なる文もみられるが筆者が文意をそこなわぬように鄯〜鄽まで書き分けた)
藤澤は次の章、「<美>の知が目指すもの」のなかで「<美>とはなんであるか」という問いに積極的に応答している。以下に引用しておく。

 <美>をほんとうに知るとはどのようなことであろうか。虚心に考えてみよう。
 われわれが現実に出会う個々の美しいもの―美しい容姿、美しい肉体、美しい花、美しい天然自然、美しい芸術作品、さらには美しい学問体系といったもの、等々―の美しさは、それが今どれほど美しいと思えたとしても、やがては変容して、美しくなくなって滅び去るものであったり、見方によっては美しいとはいえない面があったりする。またそれを美しいとは思えない人たちもきっといるだろうし、あるいはもっと美しいものが現れて比較されれば絶対と実感されたその美しさも輝きが薄らぐだろう。
P89

藤澤は「ディオティオマの美の概念」はディオティマとソクラテスの問答からみちびきだされた答えである。ここで藤澤は鄯〜鄽のディオティマの概念を日常生活にてらしあわせて考察している。 「見方によっては美しいとはいえない面があったりする。またそれを美しいとは思えない人たちもきっといるだろうし、あるいはもっと美しいものが現れて比較されれば絶対と実感されたその美しさも輝きが薄らぐだろう」という藤澤の言葉はわざの美を競う体操競技やシンクロナイズド・スイミングなどの採点競技にもいえることではないだろうか。
そして、藤澤はこうも言う。

 だからわれわれは、そのようにいろいろと否定的な面をもち、相対的である美しさの個別例をどれほど感動とともに知ったとしても、<美>をあますところなくほんとうに「知った」ことにはならないだろう。<美>を「ほんとうに知る」というときの、真の知の窮極の対象として考えられる<美>とはそうした個々の事例に局限される「美しさ」のどれともけっして同じではなく、それらから厳密に区別され、それらを超えていなければならない(ディオティオマの語る鄽尚、ソクラテスの語るところは文意上割愛させてもらった)。
P90

引用文献
プラトンの哲学』藤澤令夫、岩波新書
『饗宴/パイドン朴一功、京都学術出版会