『Kの物語』⑦ 『リュシス』―友愛について―

私は「ソクラテスの徳概念」に近づくために友愛をあつかったプラトンの対話篇『リュシス』l9〜8『饗宴』とアリストテレスの『ニコマコス倫理学』友愛篇と『エウデモス倫理学』フランスの哲学者アンドレコント=スポンヴィルの『ささやかながら、徳について』を引用して「友愛は徳に含まれるのか」を考察していきたい。
まずは『リュシス』より
  
では答えてくれたまえ。誰かが誰かを愛するばあい、どちらがどちらの友になるのかね<愛するほう>が<愛されるほう>の人の友になるのか、あるいは、<愛されるほう><愛するほう>の人のともになるのか。それとも、どちらもまったくかわりのないことね」
「まったくかかわりのないことだと思います」
「それはどういうこと?すると、ただ一方から他方を愛するだけで、両方ともお互いの友だちになるのかね」
「そう思いますが」
「ではね、自分では愛しているのに、その相手からは愛してもらえないということはないかね」
「あります」
「ではね、さらに、愛しているのに、憎まれることさえあるのではないか。じっさいパイディカ(愛童)に愛をしかける人たちが、よくそんな目にあっているようだが。心のかぎりをつくして愛しているのに、相手から愛しかえしてもらえないとか、それどころか、憎まれているとか思っている人たちがあるものだ。君にはそう思わないのかね」
「全くそう思います」
「ところで、そのようなばあいに、一方の人は愛し、他方の人は愛されているのではないかね」
「そうです」
「それではいったい、その二人の中の、どちらがどちらの友なのかね。相手から愛されようと、また憎まれようと、<愛するほう>が<愛されるほう>の人の友であるのか、あるいは、<愛されるほう>が<愛するほう>の人の友となるのか。いや、それともまた、このようなばあいには、両方ともお互いに愛しあうのでなければ、どちらがどちらの友にもならないのかね」
「いちばんあとのがただしいようにおもえます」
「そうすると、さっき考えたこととちがったわけだ。つまりわれわれは、さっきは一方が愛すれば両方とも友だちだと考えたのだが、こんどは両方とも愛するのでなければ、どちらも友ではないと考えるわけだ」
「そうです」
「してみると、愛する人にとっては向こうから愛しかえしてくれるのでなければ、いかなるものも<友>(ピロン=愛しいもの)ではないことになる」
「そうなるでしょう」
「してみるとまた、馬のほうから愛しかえしてもらえない人々は馬を愛する人ではないことになり、同様にして人は、うずら好きなひとでも、また犬好きな人でも、酒好きな人でも運動競技が好きな人でもなくなり、また、知のほうから愛しかえしてくれなければ、知を愛する人ではないことになる。それとも、彼らはそれぞれ、それらのものを愛しているのだが、それらを<友>(愛しいもの)として愛しているのではなく、したがって、
 子どもたち、ひづめが一つの馬たち、猟犬たち、
 そして外国の客人、彼らを友とする人は幸いだ
と言った詩人(筆者注:前6世紀始めに活躍したアテナイの政治家、詩人、ソロンの詩)はうそを言っていることになるのかね」
「そうは思いません」
「では彼のいうことがほんとうだと思うのかね」
「はい」
「してみると、愛する人にとって、自分に愛されるものは、それがこちらを愛しようと、また憎もうと、友(愛しいもの)である、ということになるようだね、メクノクセノス。だからして、たとえば、生まれたばかりの赤ん坊は、まだ愛したりしないし、また、母親や父親に叱られて憎んだりするけれども、こちらを憎んでいるそのときにも、その子は両親にとって他の何よりもいちばん愛しいものなのだ」
「そうだと思います」
「では、この議論からすると、<愛されるほう>が友なのではなくて<愛されるほう>の人が、そうなのだということになる」
「そのようです」
「そして<憎まれるほう>の人が敵なので、<憎むほう>の人はそうでないことになる」
「そうなるでしょう」
「そうすると、ずいぶんたくさんの人々が、敵から愛されたり友から憎まれたりし、したがって敵にとって友であったり、友にとって敵であったりしていることになるだろう、もし<愛するほう>ではなく<愛されるほう>のものが友であるとすれば。もっとも、敵にとって友で、敵にとって友であるというのは君、まったく不合理なこと、いやむしろ不可能なことだとおもうけれどね」
「まったく、おっしゃるとおりだと思います」
「それで、もしそれが不可能だとすると、<愛するもの>のほうが<愛されるもの>のほうの友であるということになるだろう」
「そうなるでしょう」
「すると他方、<憎むもの>のほうが<憎まれるもの>のほうの敵であることになる」
「もちろん」
「すると、われわれはまた、さきのばあいとまったく同じことを認めねばならないことにならないはめになるだろう。つまり、人はしばしば向こうが愛していないのに、あるいは、憎んでさえいるのに、その人を愛することがあるが、そのときには友でないものの友となったり、さらには敵の友となったりし、他方ときとして、向こうが憎んでいないのに、あるいは愛してさえいるのに、その人を憎むときには、敵でないものの敵となったり、さらには友の敵となったりすることになる、ということだ」
「おそらくそうなることでしょう」
「さて、それではいったいどうしたものだろう、<愛する人>も<愛される人>も、また<愛し愛される人>も、友ではないということになるとさらにそれらの他に、まだ何か、互いに友となるようなものがあると、われわれは言ったものだろうか」
「ゼウスに誓って、ソクラテスさん、どうしてよいか私にはよくわかりません」
「ねえ、メネクセノス、われわれのしらべ方が、根本からまちがっているのだろうか」
すると横から、
「まちがっているように思います、ソクラテスさん」とリュシス。
 そう言ったあとで、すぐに彼は赤くなりました。われわれの話にすっかり気をとられてしまって、思わず口をすべらしたようでした。
(212B―213A)
考察
『リュシス』の概略をのべておくことにする。このなかで行われる議論の主題は「友とは何であるか」ということである。しかし、正確にのべるならばギリシア語の友愛(ピリアーφιλία)ということになるであろう。狭義では友愛友情を意味するものの広義では愛一般をさししめすがギリシア世界では少年愛が一般的であった。以下で考察していく『饗宴』でも少年愛から出発することになる。また友(ピロスまたはピロンφίλος,φίλον)元来「愛しい、好ましい、親しい」意味でこの作品は友愛論から伸縮自在に枠を超えたものとなっている。引用した冒頭はいわば音楽で言えば第一楽章にあたり、リュシスに対話相手が変わってからがらりと様相を呈する。ソクラテスは「似る者を似る者のかなたへ、神、つねに導き」ホメロスの『オデュッセイア』第17巻218行や「似たものが似たものにとってつねに友であることは必然であるとすぐれた賢者たちの文章にのべてあるのに出あったことはないかね。それは、自然や万有について論じたり本を書いたりしている人たちだと思うのだが」とアリストテレスの『ニコマコス倫理学』第八巻(1155b7−8)とエンペドクレス(前5世紀)に相当する言葉もとびだし、「友はなんであるか」アポリアー(行きづまり)が浮き彫りになる。