『Kの物語』⑤

私はKのようにファンタジーを書くことができずに悩んでいた。Kは地下室に降りていくことができたが、私はそうすることができずにいた。そのために創作落語を書いてしまおうと思った。エドガー・アラン・ポウの怪談物やシャーロック・ホームズの推理物を下敷きとしたものだった。噺の勉強のために寄席へ足を運んだりした。私が特に好きだった噺は「道具屋」だった。
 与太郎が伯父さんの言いつけでもって家業の「道具屋」を引き継ぐという噺で私はこの噺を寄席へ行って5回も聴き、ネタ帳に書き写すことによって覚えていった、と言っても私が書くのは創作落語だからいちから本を練り上げていかないとだめだった。私は創作落語を苦しみながら書き続けた。そのために『Kの物語』の原稿はとどこおってしまった。Kはミステリー小説を書きはじめた。Kの書く小説はたちまちベストセラーになった。私の創作落語も足しげく寄席に通っていたためか、噺家さんに顔を覚えられて実際に寄席で上演されたりもした。そのなかには出来の悪い体操選手がオリンピックまで行くという噺もあった。私の書く創作落語は怪談物が多く、噺家さんの腕にかかっていた。
 創作落語の執筆活動がひと段落つくと趣味で落語をやりたかったためひとつめに「道具屋」ふたつめに「大工調べ」みっつめに「湯屋番」を覚えていった。入門したわけではないので、私はCDで聴き、『古典落語集』を音読し、原稿用紙に書き写して覚えていった。そのことは今後の私の創作活動の大きな源泉となっていった。私は創作のネタになる本を音読し、身体にネタをたたきこんで創作へむかう。Kはそのようなことをしない天才肌の作家だった。Kはブルーの分厚いノートに青い万年筆で書いて、それを原稿用紙におこしていった。
私はプラトンの作品である『プロタゴラス』と『リュシス』を読み終えたばかりだった。ちょうどそこへKがぼくの六畳間のアパートに入り込んできた。私はプラトンの対話篇のなかでも『パイドン』と『プロタゴラス』、そして『パイドロス』が好きで何回も読みこんでそらんじられるまで頭と腹にこびりついていた。このことは『Kの物語』を書く上でなくてはならない要因のひとつとなった。私は将来、イギリスに渡ってプラトンソクラテスの研究、主としてソクラテスの初期の問答法について研究していきたいと願うようになっていった。プラトンの作品はその全てと言っていいほどソクラテスへのミメーシス(模倣)によって成り立っている。ソクラテスはひとつの書物も書かなかったが、弟子であるプラトンソクラテスの問答を書き綴ったことによりわれわれはその言行をつぶさに見るようにして読むことができる。
 プラトンの研究は現代においてイギリスが台頭しているという。私は英語の勉強を工夫し、イギリスのケンブリッジで研究していきたいと思う。そのようなことをKに話したら鼻で笑われてしまった。
「おまえの語学力では限界がある。なにしろ古典ギリシア語をローマナイズ(ローマ字化すること)することすらできないのだからね」
そのうちに出来るとつぶやいたままその日は終わってしまった。私は『パイドン』と村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の英訳である“Hard-boiled Wonderland and the End of the World”を精読に取り掛かった。プラトンの戯曲作品は噛めば噛むほど味がでるスルメイカのような特徴をもっている。なかなか眠りつけない夜にはぴったりの本だと私は自負していた。
 読んでいるうちにだんだんと眠くなっていき、夢を見だした。高校の恩師が車で沼津の街をまわってくれたのだった。いろいろなことを問答したが、目覚めた後には何も覚えていなかった。ただ高校の恩師の姿がまぶたに焼き付いてなかなか離れようとはしなかった。その夜のことは変に記憶に残っている。