『Kの物語』③

私はKの児童文学作品を編集することにした。Kは妖精を見たことがあるらしく、妖精が消えていく作品が多くあった。私は妖精は何の象徴だろうといらぬ解釈をしたり、女性像のKにおける神秘性を「Kの理想の女性像」と勝手に思い込んだりしたが、Kには、「大きなお世話だ。」と言われてしまった。私はKの児童文学作品を編集して、「よみきかせ」にしようとした。Kは喜んでそのことを受け入れてくれた。Kの書くファンタジーにはコスモロジーがあった。何度聴いても新しい発見のある物語だった。Kは「小説を書くことよりもむしろ物語を書いていきたい」と言っていたことがある。Kの父親は絵本に挿絵を描く仕事をしていた。夜の時間帯に友人が書いたファンタジックな文学作品に彩りをそえていった。Kは子どものころに父親の描いた挿絵を沢山見ている。Kはファンタジー小説を書く前にミヒャエル・エンデの童話やグリム童話を音読していた。うつ病であるKをささえていたものはメルヒェンであった。私は小説を書くことにした。その名は『Kの物語』だ。私とKとの「たましい」の交流を描いた物語である。宮沢賢治になって書いている。
 私は『Kの物語』を書くことによって「自己をみつめるいとなみ」をしていこうと考えた。それはC.G.ユングの『ユング自伝』が書かれた目的に等しく、『Kの物語』自体もひとつのファンタジーとして書いて行きたい。私はユングの『アイオーン』を音読することによって「たましい」の存在を明らかにしようとしている。また、グリム童話を音読し「語る」ことによって「語ること」と「たましい」の関係について探求していきたい。創作活動については音楽を聴きながら執筆することにした。Kも部屋のなかにはレコードやCDが山盛りになっていた。ミヒャエル・エンデの『モモ』の物語は私にとって印象深い。小学生の読書感想画を描いたためである。『モモ』は「時間」について考察を深めることができるファンタジーノベルだ。現在、書いている『Kの物語』はバッハのゴールドベルク変奏曲を聴きながら執筆している。
私は不眠症でなやんでいた。それはもう「死にたい」と思うほどのものだった。Kはうつ病をかかえてはいるが、夜はぐっすりと眠ることができる。薬にかなり頼った生活を私はしている。グリム童話ミヒャエル・エンデの作品を音読することが「たましい」のよりどころだった。音楽は大抵、バッハの『平均律クラヴィーア』か『ゴールドベルク変奏曲』を聴き、ときにはチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』を聴くときもあった。Kはベートーヴェンが好きで交響曲ばかり聴いていた。Kはいつまでもまとまらない自分の全集にいらいらしていた。Kの書く児童文学作品はミヒャエル・エンデの言葉をかりるならば「闇の考古学」だった。夜になるともそもそとうつ病で寝ていた床をひるがえし、分厚いノートに青インクの万年筆でファンタジーの世界を描いて行く。疲れていようがKは「おとぎばなし」を書き続けていった。Kはスイスのサナトリウムという療養所で療養生活をしていた時期があり、そのあいだ書きつけていたメモが創作の上で役にたった。私もKも心理療法家のバルバナスにセラピーを受けていた。バルバナスは私たちの「語り」に耳を傾けるだけだった。治療の一環として「おとぎばなし療法」というものがあった。各人FAX用紙に縦書きで自分の体験を象徴させるような「おとぎばなし」を書いて行き、心理療法家のバルバナスに読んでもらうという簡単なセラピーだった。Kは「おとぎばなし」をつくるのが上手で大作もあり、私は短編ばかりだったので舌を巻いてしまった。「おとぎばなし」を書く理由は意識していたことが無意識のほうへ心的エネルギーが逆行していくことで創造的な行為が生まれてくるためだ。Kの書くメルヒェンには宮沢賢治のようなコスモロジーが存在した。Kの書いたメルヒェンのなかに『石の博士』という話がある。
 むかしむかしあるところに石の博士が住んでおりました。石の博士は道に落ちている石をひろっては研究をしていました。王さまはお妃さまの娘のぺルーと石の博士を結婚させようとしましたが、博士は「ひとり者が良い」と言って断りました。一度目は宝石を持って訪れ、二度目はマントを持って訪れ、三度目は白鳥を持って訪れましたが、すべて断られてしまいました。石の博士はヴァイオリンを弾くことができました。美しい音色に町じゅうのひとびとがとりこになりました。ある日、三度目に持って行って断られてしまった白鳥が石の塔から逃げだして、石の博士の家までやって来てしまいました。ひとつの窓からはあのヴァイオリンの音色が聴こえてきます。こつこつと窓からたたく音がして気がついた石の博士は白鳥を家のなかへ招きいれました。すると白鳥はペルーに変身したのです。ペルーの姿を一度も見たことがない石の博士はその美しさに驚いてしまいました。ペルーは「あなたにおくりものがあるわ」と言いドレスの中からひとつのヴァイオリンを取り出し、石の博士に手渡しました。それからふたりは結婚し、新しいヴァイオリンで町じゅうを元気づけました。
私はKの作品のなかでこの作品を一番気にいっている。話のなかに「希望」が見えるためだ。そしてこの作品が一番短い作品だった。小説を書くことは無意識のイメージの世界に入っていく行為だ。私は心理療法家のバルバナスに「統合失調症」と言われてしまった。私は趣味で作曲をしている。Kがヴァイオリンを弾くことができるので私が作曲した曲でKが演奏することもまれではなかった。『Kの物語』のなかで私は人間の内奥に棲む神と仏そして悪魔を描いて行きたい。Kは創作するときに一種のデモーニッシュ的な側面があった。夜に書きはじめたらもう筆がとまらないのだ。
 私はある夢を見た。その夢のなかでは私はゲーテの『ファウスト』にでてくるファウスト博士になっていた。おそらく日常生活でゲーテの『ファウスト』を朗読しているためだろう。私は悪魔(サタン)に対して怖いイメージしかもたなかったが、『ファウスト』では悪魔のメフェストフェイレスが実に魅力的に描かれている。私の書いた「おとぎばなし」はKの書いたものと比べるとまったく問題にならなかった。私は幼いころから怖い夢ばかりみる。最近は、マラソンの夢だったりいろいろな夢をみるようになった。現在、私はバッハの『マタイ受難曲』を聴きながらこの『Kの物語』を書いている。真夜中に。真夜中の時間帯は正に「闇の考古学」。私は私自身の「自我」の確立のためにペンをとり書いている。大谷大学に復学したらシェイクスピアの戯曲を舞台化やゲーテの戯曲『ファウスト』を舞台化していきたいと考えている。