『臨床哲学小説』 Kの物語②

 私はKの部屋を訪ねたことがある。Kの部屋には運動学者である金子明友氏の著作やフッサール現象学の本があった。私は体操競技に関してはずぶずぶの素人だが、京都大学体操部に入ることになった。Kも京都大学体操部に入っていた。Kと酒をくみかわしながら<身体論>について語りあった。Kはうつ病をかかえており、その治療の一環として体操競技をはじめたのだった。小説を書くことはKのセラピーのひとつとなっていた。トールキンカフカの小説をこよなく愛し、繰り返し読んでいた。特にトールキンの『指輪物語』が大好きであった。
 <身体論>を現象学的眼差しから見つめるためにKはよく『体操競技ノート』をつくって<コツ>や<カン>をことこまかに記述していった。ファンタジーに関して「運動伝承」という分野に関して共通するところがあった。<身体論>に関してはメルロ=ポンティの『知覚の現象学』やフッサールの『イデーンⅠ、Ⅱ』によるところが大きかった。Kはうつ病と寄り添うために「臨床哲学」をよく学んでいた。Kは「ぼくのライフワークになりそうだ」とぽつりとこぼしたことがある。Kは金子明友氏の著作から<身体知>の考え方を取り出して「体操競技の<わざ>が身につくまで」という修士論文を書いた。うつ病のことは本音を隠していた。
 私はKに「本音」はあんまりいわなくていいよ。とアドヴァイスをしたがKは聴く耳をもたなかった。そもそも「本音」をさらけ出すことは難しいことだ。Kはうつ病をかかえており、うつ状態になると家から1歩もでかけることができなかった。うつ状態を打ち消すためにKはファンタジー小説を書いていた。そのなかに「本音」が書きこまれていた。「死」への気持ちや「居場所」がないことなどがかなりデフォルメされて描かれていた。
 Kは「スポーツ運動学」に関心があり、現象学を学びながら<身体論>として昇華していった。K自身も体操競技についての本をいくつか書いていた。理論と実践の橋渡し的なことをいつも考えていた。「死」への恐怖はいつもあった。そのために研究が遅くなることがあったが、周りの研究者仲間たちはあたたかな眼差しで見つめていた。「死」への恐怖を埋めるためにKはハイデガーの『存在と時間』を精読していた。ハイデガーの思想はフッサールの思想なくしては語ることはできない。
私は体操競技についてまったくの素人なので基礎トレーニングとして石井直方氏のメソッドにそって基礎体力づくりをしていった。体操の基本的な筋力づくりには最も適していると考えたためだ。Kはうつ病をかかえながらも京都大学体操部で日々修練を重ねていた。Kは新しく『身体論ノート』を書きはじめた。メルロ=ポンティの<身体知>やフッサールのキネステーゼについてこまかく書きとめて、そのなかから学会に発表するための論文を書いたこともある。そのなかでもファンタジー小説を書くことはやめなかった。クラシック・バレエの成長物語を書いて上梓したこともある。ドイツ文学の伝統にのっとった物語で、グリム童話を彷彿とさせるストーリーだった。Kはいつも「不安」をかかえて生きていた。それは私にも打ち明けられないものだった。そのために「臨床哲学」の研究をしはじめた。しかし、少しずつ苦労を重ねながら「居場所」をつくることに成功していった。「死」について考えながら、それがKの原動力となっていった。
 私はなんとか倒立を2分間静止できるようになっていった。基本的な体力がついてきたためだろう。体操競技をはじめるにあたり必要な筋力がついてきた。<コツ>や<カン>の問題は一筋縄にはいかない問題だ。現象学の先入見を取り払った眼差しで<わざ>が身につくまでじっくりと運動観察をし、記述しなければならない。Kは金子明友氏の著作を読み込み、体操競技の指導の「場所」で実践していた。その<生き生きとした>現象を『身体論ノート』に書きとめていった。うつ病をかかえていたため、Kの執筆は深夜になっていた。「死」と向き合いながらKは『身体論ノート』に青いインクで書きとめていった。Kは「けあがり」や「宙返り」を楽々にこなせるようになっていた。いつも自己と向き合ってきた成果だろう。Kはうつ病不眠症に悩んでいた。私は30分しか眠っていないKを心配した。小説を書くために睡眠時間を削っていたのである。深夜の2時をまわってもKは小説や学術論文を書きすすめていた。その時間帯になるといつもKは「死」のことをかんがえていた。「死」といっても『存在と時間』であつかわれている「死」のことだ。『身体論ノート』には金子明友氏やエドムント・フッサールの思想を<身体知>という観点から記述していった。体操競技の「場所」で<できる-できない>のはざまで悩む指導者や選手を救いたい一心で『身体論ノート』を書きすすめていった。しかし、なかなかKの「居場所」は限られていた。毎日、睡眠導入剤を飲みながら小説を書く日々が続いていた。
 日本現象学会にいくつかの論文を書くことによって一筋の光がみえてきた。深夜に書いたいくつかの論文が採用されることになったのだ。Kは「死」についての考えがいまだに乗り越えられず、『存在と時間』を繰り返し読んでいた。<自己の実存>について深く考えをめぐらしており、体操競技をすることは一種の<救い>となっていた。
 私に「『身体論ノート』は本当の意味でライフワークになる」と語っていたこともあった。『身体論ノート』は「不安」を埋めるようにびっしりと文字で埋め尽くされていた。Kはいつも深夜になると執筆活動に精をだしていた。思索の時間はいつも「しん」とした真夜中にかぎられていた。それはKがうつ病を患い、不眠症と戦っていたことにも原因があるとおもわれる。
私はKの童話を読ませてもらったが、小鳥や継母が登場したり、鬼や魔女も登場していた。グリム童話を音読することがKの日課になっていた。そのなかで心身の疲れ、や魂のわだかまりを解消しているように私には見受けられた。童話をかいているKの姿は生き生きとしているときもあれば、重く静かにペンを走らせていることもあった。Kには母親がいなかった。きっとグレートマザーをグリム童話のなかに見出したのだろう。Kの童話にKはグリム童話を下敷きにした物語を書いていた。グリム童話のなかには人間の深層心理を描いて「大きな物語」が象徴されるように描かれていた。Kはグレートマザーやイメージの世界を大切にしていた。Kは内向型の人間だった。うつ病から抜け出すためにKは童話を書くことによって<心の錬金術>を行っていった。
は一種のカタストロフィーががあり、世間で評判になっていた。Kは「おとぎばなし錬金術のように研究していくことは有意味なことでおとぎばなしを集めること自体に意味があるんだ」とおとぎばなしや童話を集めることの重要性を力説した。
 私はKのうつ病のことが気がかりになり精神病理学の本を読むようになっていった。現象学者としても著名なビンスヴァンガーの本を熟読するようになっていった。ビンスヴァンガーは現象学的ものの見かたを精神医学に導入した医師で患者の気持ちになって物事をとらえていた。私は患者や他者のことを考えると現象学的ものの見かたは必要である。
 Kは現象学的ものの見かたで体操競技を研究している。私は現象学的眼差しでKのうつ病と寄り添っていきたい。毎日、Kはグリム童話を音読することによって自己の世界観を「形なきものの形」として形づくっていた。物語を「物語る」ことによって他者と通じあうことが困難なKは自己を見つめなおし、他者とつながれるようになっていったのだ。Kは運動伝承のいとなみと口承文芸が伝承されるいとなみに関心をもっていた。両者にはなにか「見えないもの」が影響されているに違いないと『身体論ノート』に書き散らしてあった。Kはグリム童話のほかにトーマス・マンの書いた『ファウストゥス博士』を熟読していた。私は密かにKのやっていることは退行現象ではないか、と考えるようになった。心理療法家でもあるバルバナスに相談したところ「その可能性が高い」と言われてしまった。無意識のなかでなにかをつかもうと必死になっているK。体操競技に関わることになったのも過去へと退行化しているのではないだろうか。
 Kはユング心理学口承文芸研究とともに研究しはじめた。Kはそのことを「昔話の錬金術」と呼んでいた。グリム童話に触れることによって<魂の糧>を自ら物語を書くことによって具体化していった。