『臨床哲学エッセー』 エッセーという習作

 エッセーという試みは私にとってなかなかなじむことができない。感覚が明るい方へといくことができないためである。私は現在、カフカの『城』という小説を精読している。この小説は<感覚が暗い小説>であり、読み進むほど私の肌理があらわになってくる。見えないものが見えてくる感覚限りなく近い。本を読むと私はその本の著者がどのような人生を歩んできたのか<気がかり>になってくる。評伝もあわせて読むことにしている。カフカが書く<感覚が暗い小説>は太宰治の小説に似ているところがある。
 <感覚が暗い>ということは眼が良いことにつながっている。なぜならば、<日常の明るみ>にあらわれないものもよく見えるということにつながっているからである。例えば<性格が暗い>ことは他者のことがよくわかることでもある。人間の間柄がよくわかることは人生を生きていくうえで大きな財産となる。本のなかの登場人物がいきいきとあらわれてくれば、人間の間柄を理解するヒントになるはずである。
 この文章を書いているあいだにも日常の時間の流れは刻々と変化していく。愉しかった思い出はまたたく間に過ぎ去り、日常の流れがおしよせてくる。それは<思考の流れ>や<意識の流れ>と無縁ではない。私は<意識の流れ>のなかに<思考の流れ>が内包されていると考えている。そして、人間の大切な感性も<意識の流れ>のなかで生かされているのである。このようなことがわかったのはカフカの『城』を読んでいる途中で気づかされたのである。<感覚が暗い時間>のなかでの出来事であった。
 エッセーという試みは自由の幅が広いがゆえに私という人間の<ありのまま>が投射されてくる。それが小説とは違う部分でもある。