『臨床哲学エッセー』「書くことは生きること」

ぼくにとって書くことは生きることだ。ファックス用紙にえんぴつをつかって<ひっかく>ことによって自己の内面をさらけ出していく。エッセーはぼくにとって生き甲斐でもあるし、相棒のような存在でもある。内面を見つめる行為としてのエッセーは「書くこと」でしかうまれてこない。手つかずの言葉でつむぎだされた言葉は誰かに「語り」かけるようにしてかいていく。日常のありふれた出来事を「書くこと」は簡単なようで実は難しい行為でもある。
ぼくは現在、『存在と時間』というすぐれたエッセーを読んでいる。哲学書なのだが、それを感じさせない本となっている。用語は難しいのだが、なれてくるとするすると軀のなかにはいってくる。人間の一生を描いた地図のような物語風エッセーなのだ。できるだけ情感をこめて書いていきたいと思うのだが、難しい言葉をついつかいたくなってしまう。難しい言葉を使うということはそれだけ自己が他者のことを理解していないということにつながっていると思われる。ぼくは自己が他者と「つながる」文章を書いて行きたいのでなるべく勉強をしてわかりやすく言葉を選んで書いて行きたい。
そして、非日常的な事柄は「臨床哲学小説」として書いて行きたい。なぜならば、小説ならば問答をおこなうことができるからである。