『臨床哲学エッセー』舞踏とはなにか

舞踏とはいったいなんであろうか。うつ病統合失調症のなかで<生きづらさ>をかかえている私は「語る」ことに抵抗がある。そのために「語る」ことのない舞踏に関心をもっている。宇宙のなかでの広がりが舞踏のなかで表現されている。舞踏にいたる道のりは長いものである。バーレッスンからはじまり、センターレッスンに移行していく道のりは一種の修行でもある。汗をしたたり落としながらその道のりを実行していくのは<舞台の上に立つ>ためであり、そのことがすべてであると言っても過言ではない。

このことは音楽を指揮することにもあらわれてくる。指揮者は楽譜に向かって勉強をして聴衆のために考察や解釈をひろげていく。存在の彼方からやってくる音のしずくを指揮者はすくいとげていくのだ。両者はちがったいとなみかもしれないが、総合芸術としてシンクロされている。それはクラシック音楽が醸し出す普遍性に裏打ちされたものなのだろう。

舞踏は音楽を聴かなければならない。なぜならば舞踏は演劇でもあるためだ。バーを握って音楽を聴き、稽古に励む。そのために学習者自身が<なぞり>が必要となってくる。振付教師が動いた<動きかた>を学習者自身が<なぞり>をとおして学んでいくのである。

私は不器用なので<なぞり>をすると別の<動きかた>になってしまう。特にセンター・レッスンの時、振付教師は宙返りに似たような<動きかた>をするので私は<動きかた>を<なぞり>によって学習することができず、正確な<動きかた>ができなかった。

京都や東京に行くときはコツを書きとめることにして舞踏のおもしろさをひろめていきたい。