『臨床哲学エッセー』2「<聴くこと>と<待つこと>」

「書くこと」は軀の思想とつながっていると思われる。なぜならば、こころと軀が直接的につながっているためである。軀を鍛えることによって文章もまた鍛えられることになる。そして、<聴くこと>もまた軀が強くなければよりよく<聴くこと>はできない。<聴くこと>は<待つこと>であり、<待つこと>は同時に<聴くこと>でもあるからだ。

音楽を<聴くこと>は<待つこと>のトレーニングになる。音楽家の演奏する音楽を<待つこと>によって<聴くこと>になるわけだ。「書くこと」は難しい。<待つこと>それ自体だからである。思いついた文章を組み立てていき、組み立てられた文章を<聴くこと>によって<待つこと>によってつなげ、文章をつむぎだしていく。

私はどちらかというと<待つこと>があまり得意ではない。たぶんツイッターの影響があるかもしれないし、根がもともと「せっかち」なのだ。それでも私は「書くこと」を大切にしていきたい。そのことによって<待つこと>にも影響が出てくるためだ。音楽を作曲するように「書くこと」を続けていきたい。音楽を作曲することは<聴くこと>の集大成でもあるからだ。何故、<聴くこと>の集大成であるか、というと音楽は<目に見えないもの>であり、<聴くこと>によってしか表象されないためである。

<待つこと>ができにくくなった現代。私は「書くこと」によって自己を表現し、魂の転生をこころみていきたい。そのことは無意識のいとなみでもある。<待つこと>は<目に見えないもの>でもあるのだから。