或るエッセイ4

「書くこと」は内面をさらけ出すことだ。それはひとつのいとなみでもある。私は「書くこと」が日常的行為になればいいと望んでいる。ファックス用紙に2Bのえんぴつによって<ひっかく>ことによって「書くこと」を定着させるのだ。このことは文体の精度にもよる。なめなめした文体しか私は「書くこと」ができない。これからもなめなめした文体で視点がぐずぐずなまま「書くこと」になっていくだろうと思う。エッセイと「私小説」とを考えた場合、何がどう違うのであろうか。エッセイは探求があり、「私小説」にはそれがないと考えている。「私小説」は或る種<闇鍋>の状態であり、どこか痛々しさが残る。

スポーツでいえば詩はそのままボクシングであるが、エッセイは陸上競技でいう中距離走であり、「私小説」は長距離走である。いずれにしても内面をさらけ出す行為とういうことだけは変わりはない。

内面をさらけ出すことは容易なことではない。そのためにメモを使ったり、プロットを組み立てたりすることがある。しかし、それは単なる方法論であって、大切になってくることはどう「内面をさらけ出し」そして「書くこと」になるかということになる。