一私小説家の弁明

ながいあいだ私は小説を書いて来た。小説を書くことは内面を吐くことである。私は不眠症に苦しめられて来た。それは外面的な不眠症ではなく、内面的な不眠症である。この原稿はファックス用紙に2Bのえんぴつでひっかかれて書かれたものである。不眠症は「眠たくても眠ることができないこと」につらさの根源があるのである。私小説はこのように私の内面をセキララに書きだすことからはじまるのである。ファックス用紙に文章を埋めるいとなみは血を売ることに等しい。しんとした深夜のなかで思いつくまま、書いていく。それはひとつの思考実験であり、自動筆記でもある。

人の生に私は関心がある。飲み、喰いそしてわれわれは生きている。内面的不眠症におちいったときに人生についてあれやこれやと考えるようになるのである。「私小説」は自己をみつめなくてはならない。その時の素材となるのが、これまで読んで来た書物や師の教えである。その言葉ひとつひとつに一万光年の光が宿されている。

私の家の近くの書店にはそのような書物が沢山並んでいたのである。「小説を書くこと」は「小説を読むこと」と密接に関係している。「小説を読むこと」ができれば「小説を書くこと」はできるのである。しかし、その「小説を書くこと」は想像以上に難しい。プロットを立て、文章の背後を綿密に書きあげなくてはならないからである。

私小説」は自己の体験を脚色したものを書きあげていくいとなみである<言葉にならない言葉>をすくいあげて言語化し、自己のできる限界まで表現していくのである。そこにはエンターテイメント性がないかもしれないが、ひとつの真理。人間のなりわいの真理が浮かびあがってくるはずである。

私は時間に支配されている。エネルギーと時間とは関係性があり、最も密度の濃い時間帯は深夜の2時30分〜4時頃までである。音楽を奏でるように文章がほとばしるときもあれば、血が一滴ずつ流れていくような時間を体験することもある。それほどまでに時間の感じかたは私という身体をとおしても違いがあるのである。小説は書けば書くほど上手くなるらしいが、私は波がある。上手くいくときもあれば、上手くいかないときもある。それはダンサーが地面に降り立つとき<きめ>ることできるか否かにかぎりなく近いと思われる。

私は京都にいたときクラシック・バレエの体験をしたことがあるが、あの体験は龍樹の空論の状態に近いような気がした。京都の仏教の風が身体にも影響を及ぼすとは思いもよらなかった。人間は身体をとおして心を見。心をとおして身体を見るのであればこの一私小説の弁明も無駄ではないであろう。