或るエッセイ2

僕は指揮者になることが夢だ。そのために毎日、ヴァイオリンの練習と読譜の練習をしている。ヴァイオリンの練習はまずまずだったが、読譜の練習はいまいちだった。僕は大学を休学しているので大声を出すことはできない。しかし、小さな声でささやくことはできるのだ。文学という名のもとに書くことは凄まじいエネルギーを必要とする。筆を折ろうとすることもしばしばだ。けれども、僕は小さな自己主張のためにえんぴつを握るのだ。楽譜を見るたびに暗い気持ちになる。何が書いてあるのかわからないためだ。わかる人には愉しいと思うが、わからない人にはまったく雲の中を歩いているような心持ちにしかならない。一小節ずつ歩くように楽譜という暗号を解読し、音楽になるように紡いでいく。

休学していると時間の振り幅が大きく感じられる。今日、明日の感覚が鈍くなるのだ。ただ「自己」があって「時間」がある。ただそれだけのことだ。一日中、床の上ですごすと「世間」にもうしわけない気持ちになることがある。ここで書く「世間」とは「自己」と「他者」の<あいだ>のことだ。「おはよう」と言うと自然と「おはよう」と返事が返ってくる<あいだ>が休学している「時間」に少しずつぼやけてくる印象がぬぐいさることができない。そのためにこころぼそくなって「孤独」を感じてしまうのだ。
その苦しまぎれに僕は指揮者になるという夢を持ってヴァイオリンの練習や楽譜の読譜に挑み続けている。

毎日、くたびれるほどの同じことのくりかえしのなかで見つかるものが必ずあると思う。楽譜の読譜のなかにもヴァイオリンの練習のなかにもそれは必ずある。だからこそ、怠け者の僕でさえ継続することができたのだから。一日にエッセイを書くことも精神のエネルギーを使うことになる。しかし、何かしらの共感はわきあがってくることだろう。なぜならば、書くことは身体をとおして行われる行為であり、ヴァイオリンもまた身体をとおしておこなわれる行為であるためだ。