『小説家をめぐる冒険』『Kとヤポンスキー』

 僕は小説を書くことを仕事にしていた。コルクばりの部屋で自分の記憶をたよりに小説をつむぎだしていくのだ。僕には友人のKという作家がいた。Kは「音楽のように」小説をつむぎ出していった。また、Kは詩人でもあり、フランス語で詩を書いて日本語に翻訳し、フランスと日本で本を出版していた。Kと僕はペットボトルの緑茶が好きで、コーヒーもまた好きだった。コーヒーは家のすぐそばにある喫茶店で水出しコーヒーやエスプレッソを買って飲んだりした。
 僕はその喫茶店で仕事をすることが多かった。家には本が山積みになっており、仕事どころではなかったのだ。仕事は主にミステリー小説や純文学の作品と海外の作品の翻訳だった。イギリスの小説やフランスの小説、それからロシアの小説の翻訳だった。Kもまた同じような仕事をしていた。仕事が煮詰まってくると、僕はカフカの小説やギリシャの『イリアス』をよむことにしていた。僕の一族にはギリシャ人がおり、古典ギリシャ語の研究をしていた。そのギリシャ人がKだった。
 Kは「小説を書くことは体力勝負だぞ」と僕に話をしたことがあったので、僕は体力づくりとして「サバット」をやることにした。「サバット」はムエタイのように腕と脚をつかっておこなう格闘技だった。なかなか慣れるのが難しくて汗が滝のように流れた。だが、「書く体力」がみなぎってきた。
 僕は或る日、マフィアから評伝を書くように依頼された。僕の一族にはマフィアが絡んでいるためだ。評伝の仕事はロシア人のヤポンスキーからインタビューしてそれを原稿におこすことからはじまった。ヤポンスキーは僕の一族の石油資源から多くの利益をもらっていた人物のひとりだった。彼はどこからみてもマフィアにしか見えなかった。「人はみかけによらない」が、彼はいつも黒のジャケットと黒のネクタイをしていた。長身で胸板が厚かった。
ヤポンスキーはイギリスの名門オックスフォード出身。銃の腕前はかなりのもので射撃クラブに所属していた」
 ここまでしか彼の情報を聴き取だすことができなかった。後日、家で小説の仕事をしていたら、突然サブマシンガンでぼろぼろになるまで撃たれてしまった。仕方がないのでKの家に泊まって、ヤポンスキーとの会話を録音したICプレーヤーから原稿をおこすことにした。ノート一冊分の記録をとることができたのはさいわいなことだった。また後日、ヤポンスキーから話を聴いてみることにした。ヤポンスキーは熱がこもると英語からロシア語へと変わってさまざまなことを話しはじめた。まるで、ドストエフスキーの『悪霊』のように。
 Kの家に帰ったあとノートにICプレーヤーで録音したものを書きおこす作業にとりかかった。ヤポンスキーはしゃべり上手だったので書き取ることが容易だった。Kとよく話し合い、一冊分の原稿を書き上げることができた。そのあとはフランス小説やロシア小説を日本語に翻訳する仕事ばかりの日々が続いた。
 海外のTVをみていたら、ヤポンスキーが暗殺される事件がながれていた。いそいでKの自宅へ戻ってみると、Kはいなかった。Kはヤポンスキーだったのだった。部屋のなかにヤポンスキーのネクタイとジャケットが見つかったためだ。