『小説家をめぐる冒険』『クラタカソウスキ』

 僕の友人はクラタカソウスキといって32歳の小説家。17歳で若くして文壇にデビューした。クラタカソウスキはクラシック音楽が好きでよくベートーヴェンのシンフォニーをCDで聴いていた。僕はベートーヴェンよりもむしろビートルズの音楽ほうが好きだった。僕自身も小説を書くが、クラタカソウスキの小説のほうが、世界観がよく描かれており足元にも及ばなかった。クラタカソウスキは純文学作家で純文学以外の作品を書こうとはしなかった。
 僕はよくあるミステリーばかり書いてそのメモで部屋のなかがうめつくされていた。人物の家系図を書くことがわりと好きで僕の書く作品には多くの登場人物が必要だった。僕はいつもギリギリに追い込まれていた。そう、〆切りだ。不安で仕方がなかったのでクラタカソウスキに相談に行くことがたびたびあった。小説は大学時代から書いているが、なかなか芽が出ずに大学を卒業して大学院に入り修士課程になったときにようやく世間の目にとまるようになった。
 クラタカソウスキは高校生のころから文筆業に「ハマって」いた。クラタカソウスキは与謝野晶子が書きなおした『源氏物語』を書き写していた。遠くからビートルズの音楽が流れてきた。クラタカソウスキの住んでいる近くにはレコードショップがあり、レコードやCDが売られていた。
 クラタカソウスキはクラシック音楽、特にベートーヴェンやバッハばかりをCDプレーヤーで聴きこんでいた。クラタカソウスキは「僕の文章は音楽だ」と文藝部の仲間に言っていたこともある。クラタカソウスキはサクラさんという女性と結婚していた。サクラさんは料理が上手で、刺身のお造りやぶた丼などの日本料理が特に美味しかった。僕もサクラさんの料理を何度か食べにいったことがあるが、「料理が好きな人は料理が上手である」という言葉は本当だった。
 僕は大学を半年間休学していたことがある。そのあいだは小説ばかりを書いていた。ほかにすることがなかったためだ。それからヴァイオリンを弾いたり、ビートルズのCDをよく聴きこんでいた。まわりにはクラタカソウスキ以外の人間とは真の友人と呼ばれる人がいなかったと言えば言いすぎになるが、実際にそうだった。インターネットでツイッターをはじめたら多くのフォロワーの人にが集まって来てくれた。このことは僕の心のなぐさめになった。ミステリーを書いて出版社をかけずり回ったが、なかなか相手にしてもらえず、苦心した。僕は「売れる本」を書くことができなかったのだ。
 クラタカソウスキはその点に比べて「売れる本」を書くことができた。僕は一度、「売れる本」について考えてみたけれど答えは出てこなかった。クラタカソウスキは文壇のなかでそこそこの成功をおさめることができた。クラタカソウスキにさそわれて、銀座のバーにつれてもらったことがあるが、人見知りが激しい僕はなかなかバーにいるひとたちと親交を結ぶことができなかったのでバーのマスターにウォトカをすすめられたが、パーコレーターのコーヒーでがまんした。
 僕は趣味のことをバーのマスターと談話した。「指揮者の形態模倣」のことだ。カラヤンからバーンスタインまでいろいろな「指揮者の映像」からその指揮者の本質がわかるまでとことん、粘って模倣していった。さいわいなことに東京の銀座にはタクトを売る楽器店があったのでそこで5千円近くするタクトを一本買ってその日はお開きになった。
 僕の家はせまくて日当たりがよくないアパートだったが、銀座のすぐ近くに住んでいたため便利このうえなしだった。炬燵の上でメモをとり、そしてミステリー小説を書いていった。時々、小説を書くのが嫌になってくると腕立て伏せをした。書く時間は午後の3時頃か、朝の4時頃とだいたいきまっていた。カフカの小説や村上春樹の小説、そして太宰治の小説が好きで読み込んで書いていた。クラタカソウスキも同様に「小説を読むこと」を大切にしていた。
 僕は趣味で語学の勉強をしていた。ロシア語とドイツ語、チェコ語、そして古典ギリシャ語だった。僕の語学の勉強はのんべんだらりと入門書に付いているCDにあわせてシャドウイングするだけの「お気楽」なものだったが、「3年後にはチェコとロシアに行きたい」という目標を持って続けていた。クラタカソウスキはポーランド語を自由自在に話すことができたので、僕はうらやましく思っていた。ポーランドといえば、ピアノの天才ショパンがいた土地。クラタカソウスキはピアノ用の楽曲を作曲することができたのでポーランドに遊学したこともあった。ポーランドには僕は一度も訪れたことがない。訪れた外国はひとつもなかった。
 いつかは外国にいってみたい、と願い今日もビートルズやロシア語、ドイツ語、チェコ語、古典ギリシャ語のCDを聴きながらミステリー小説を書く日々が続いているのだった。