『小説家をめぐる冒険』『ある小説家』

 僕は『ある小説家』という政治に強いゴーストライターが主人公の小説をブタペストやギリシャを旅行しながら書いていた。大学時代、僕は古典ギリシャ語を学んでいたけれど、現代ギリシャ語ほうがずっと手強いものだった。『ある小説家』という名の小説を書こうと思ったのは「自己をみつめる時間」をぎゅっと凝縮したかったためだ。僕は「小説家になることは並大抵なことではならんな」と『ある小説家』を書きながら思った。友人のトモオカヒロシには3回ぐらい、「君は小説家には向いていない」「小説のなかの世界が描けていない」と言われたこともある。だが、この『ある小説家』は長編小説にしていきたかった。そのためにメモに詳細にディティールを描きこんでいった。
 僕は考えながら小説を書いていくタイプでめったにそのようなことはしなかった。だが、長編小説をとにかく書きたかったのだ。僕は「自己をみつめたかった」のだ。カフカが『城』のなかでもがき苦しみながら小説を書いたように。ブタペストのなかのホテルで缶詰めになって小説を書いていった。書いて、書いて煮詰まってくるとジャズやクラシックの音楽を聴くことにした。ホテルには缶ビールとお茶があったが、お酒を少ししか飲むことができなかった僕はお茶を飲みながら小説をつむぎだしていった。カフカの『城』は4回も読んだが、『ある小説家』を書くにあたり5回目を読むことにした。カフカは人間の深層心理にふみこんだ作家で僕は旅行中でも読むことにしている。
 ブタペストの空と日本の空はひとつにつながっている。あたり前のことだけど、いっぽ立ち止ったらあることがいとおしくなるということを僕は『ある小説家』のなかで描きたかった。主人公であるモロゾフ中佐はそんなことができる退役軍人で自分の内面を小説のなかで独白していた。その独白小説は新聞記者であるメルカトロフ青年の手に渡ることになる。メルカトロフ青年は小説を書きたかったが、親の反対にあい新聞記者になることになった。三面記事を書いていた一青年が、軍事情報がもりこまれた小説をモロゾフ中佐から「ノックの音で」渡されることになり意外な展開をみせることになる。
 僕はここまでの内容を原稿用紙ではなくノートにボールペンで「書いて」いった。ブタペストにいるあいだはチェコ語と古典ギリシャ語の勉強に集中することによって『ある小説家』を書くための素材と軍事情報をチェコの新聞から切り取ってスクラップ・ブックにべたべたと貼り付けていった。物語のなかでモロゾフ中佐は博識に描かれているが、小説を書く過程で博識になっていったことをどう描くのかが、『ある小説家』のディティールのひとつとなっていった。
 僕はノートに13ページ書いたあとブタペストを離れてギリシャに行くことになった。古典ギリシャ語を大学時代に専攻していたおかげで何とか現代ギリシャ語を身につけることができた。僕は「私があって世界がある、私小説」をおもしろく思わない人間だった。そのため、大学中に「私小説」を書くことはなるべくさけてきたが、25歳を過ぎゆくなかで「私小説」を書かざるをえない状態になってしまった。『ある小説家』のなかでモロゾフ中佐は僕の反面教師であり、メルカトロフ青年は僕の自己投影だった。実はそうではないこと、が実はそうであることになることは人生のなかでくりかえし訪れてくる。ギリシャでは「やっつけ仕事にならないように注意深く」書いていった。
 デジタル時計を見てみると午後の4時18分。僕はギリシャのあまり高級とはいえないホテルで『ある小説家』の3分の2を書いているところだった。モロゾフ中佐がメルカトロフ青年に何故、この大切な小説を書いたか、を独白する長いシーンではノートの60ぺージを費やした。ギリシャを散歩した。ギリシャには1度も訪れたことがないが、ギリシャの雰囲気は日本の大学でみっちり教わった。僕は『ある小説家』のラストシーンを書きあげるつもりだった。政治に強いモロゾフ中佐が後輩にあたるメルカトロフ青年に政治集会に参加するようによびかけたところ、モロゾフ中佐が誰かに暗殺されてしまうシーンだった。ペロポネソス戦争がかつて行われていた場所を僕は散策した。いつか訪れてみたい場所のひとつだった。そしてエーゲ海をみつめ遠いギリシャ都市国家であったポリスを想った。
 僕が好きなことは「文章を書き写すこと」だった。そのなかでもヘーゲルの『精神現象学』を書き写すことは間逆の行為だったが、一定の精神のレヴェルに魂を引きあげる上で役に立った。『精神現象学』自体が「ひとつの精神物語」なる構成を持っていたため、「ひとつの小説を書きあげる上で」非常に参考になった。『ある小説家』はそこそこのベストセラーになったが、僕はまた『ある小説家』を超える小説を書くことになる。