臨床哲学小説 『青い森のなかで』

青い森のなかで大嶋貴光は小屋を建てて暮らしていた。大嶋貴光は詩や小説を書いて生計をたてていた。青い森には池と小川があった。小川からは東都大学へとつながる道があった。貴光は東都大学で哲学のなかの美学を学んでいた。貴光は大学で文章の書き方を博士からまなんでいた。飯田橋博士はショートショートを書く技術をもっていた。講義のなかで博士はそれを「テクニカルライティング」と呼んでいた。貴光は美学と一見関係のない授業も取っていた。その学びが詩や小説を書くときに役にたつはずだと根拠のない自信を持っていたためだ。貴光には心残りな事があった。それは高校時代に恩師の眼を泪で溢れさせてしまったことだ。そのことがきっかけで、貴光は創作の道に進むことになった。
貴光には田中精一郎という親友がいた。精一郎はエラリークイーンやドストエフスキーが好きな文学青年でタバコも良く吸った。貴光と同じく哲学科の二回生であった。精一郎は妙子というロイド眼鏡を掛けた恋人がおり、妙子は独文科の三回生であった。妙子は貴光よりも上手い詩を書くのでクラスのなかでも人気者であった。しかし小説では貴光に勝ることができなかった。妙子は家にいるときでもロイド眼鏡をはずしたことがなかったが、ロイド眼鏡をはずした妙子は精一郎にとって“聖母”のなにでもなかった。
 精一郎には推理小説を書く才能があった。いつもエラリークイーンの本を持ち歩いているためなのだろう。そしていつも“書いていた”のだった。小さな手帳を持ち歩き、ストーリーの骨子を“書いていた”のであった。精一郎は長めのストーリーを要約して自分のものにする技術をもっていた。そのためにエラリークイーンの『Xの悲劇』などはボロボロになっていた。鞄の中から何が出てくるかわからない。貴光はよく小川と精一郎の鞄にもなにかワープのような有機的なつながりがあるのではないか、と密かに思っていたりもした。
 貴光は学校から小屋へ戻る時刻はいつも遅い。そのなかで創作にあてる時間は深夜1時から昼の1時ときっかりきまっていた。部屋のなかにはタバコの匂いがするエラリークイーンの文庫本が本棚におさめられていた。なかには遠藤妙子と名前が書き記されてある本もあった。貴光はショートショートを小さな原稿用紙のウラにちいさな字で2Bのえんぴつを用いて書いていった。貴光はタバコもお酒もやらないので、コーヒーだけでものを書いていった。青い森では静寂が支配していた。貴光には工藤冴子というバレリーナの恋人がいた。冴子はバレエの専門学校を出てから東都大学に進学し、同じく哲学科で美学を学んでいた。冴子は美学のなかで舞台芸術学を学んでおり、エドガー・アラン・ポーの詩や小説が好きだった。文才もあり、冴子の書いた詩をとりあげてくれるミュージシャンもかなりいた。
 貴光は小津安二郎の映画が好きでメモをとりながら観ていた。映画監督を目指していた時期もあるので研究もかねて良く観ていた。映画を観ているときに詩が閃くときもあった。貴光は創作活動が煮詰まってくると青い森を散策した。きれいな空気と緑を全身に浴びることは貴光の最良の気分転換になった。青い森を散歩し終わると貴光は詩を書き綴った。日頃からエドガー・アラン・ポーの詩に親しんでいた貴光はその影響が色濃く自身の作品に投影されていた。時々、貴光は文学サロンへとでかけていって自作の詩や小説を発表したりしていたが、精一郎の文才には敵わなかった。精一郎はひとつのアイディアを掘り下げる才能があったが、貴光は様々な作家の模倣が多かった。貴光は文学に恋をしていた。「自分の物語を生きること」、それが貴光の信念になっていた。しかし、精一郎のきらめく才能を前にして貴光は「読者のための文学」を探りはじめた。そのことがショートショートにあらわれはじめたのは東都大学で飯田橋博士の「テクニカルライティング」を学んでレポートを執筆し、はじめて内面的に成長しようという意欲を持ちはじめた。
 貴光は文学賞に応募するために作品を書いてはいなかった。まだ、そこまでのレヴェルにはないと考えていた。貴光は時々、冴子と会ってお茶をした。冴子と話をすると必ず話題になるのが、クラシック・バレエエドガー・アラン・ポーの話であった。貴光は京都に旅に出かけたときに『くるみ割り人形』を観たことがあった。初めて観たバレエの世界にすっかり虜になってしまった。「ぼくは物書きの才能が無いのではないか」と貴光は弱気になって冴子にもらした。「弱気になっては駄目」と冴子は貴光を励ました。「一日10枚でも書くのが作家でしょう」冴子は貴光の眼をみつめて言った。東都大学の学食に似つかわしくない会話だった。
 貴光はこの頃1日15枚のショートショートを書くことを自らに課していた。東都大学は研究者を育成するための大学であって作家を育成するための大学ではないことは貴光も知っていた。気分が悪くなったので自宅にひきこもることにした。カフカのように勤勉に書くことにした。その勤勉さは飯田橋博士から学んだことだ。